内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

夜明け前の微光の不安、あるいは我が身の行く末も知れぬ暁の「かはたれ時」

2018-12-16 11:02:02 | 詩歌逍遥

 夜来降雪、早朝積雪二三寸。此冬初哉。今朝水泳如常。之云雪中泳。泳人諾希少也。

 昨日読んだ防人歌二十首余りのうち、特に心惹かれたのは次の一首。

暁のかはたれ時に島陰を漕ぎにし船のたづき知らずも(二十・四三八四)

 天平勝宝七年(七五五)二月、前年兵部少輔となった大伴家持は難波に赴き、筑紫に向かう防人たちを監督する傍ら、彼らの詠歌中、およそ半数の拙劣歌を除き、八十四首(うち長歌一首)を万葉集巻第二十に収載した。上掲歌はそのうちの一首。下総の国の防人歌十一首のうちの冒頭歌。
 「かはたれ時」は、「彼は誰れ時」で、夜がようやく白む頃、明け方の薄明のこと。「たそがれ時」が「誰そ彼時」で夕方の薄明を指すのと対をなす。
 ちなみに、「かはたれ時」「たそかれ時」は、フランス語では、それぞれ « aube » と « crépuscule » に対応する。前者は、白みかけた夜明けの最初の光のこと、後者は、日没直後の黄昏時である。ただし、« crépuscule du matin » とすれば、 « aube » とほぼ同義となるし、« crépusculaire » という形容詞は、時間帯に関係なく黄昏時のような薄明かりの状態をも表わす。ただ、crépuscule には、これからまもなく夜の闇が訪れるという含意が拭い難い。ゆえに、十八世紀には、比喩的に「衰退」の意味で使われるようになり、十九世紀には、西欧文明衰亡史観の流行とともに、この比喩的な意味で頻繁に使用されるようになった。ワーグナーの歌劇『神々の黄昏 Götterdämmerung 』(1876年初演)、ニーチェの『偶像の黄昏 Götzen-Dämmerung』(1888年)は、フランス語訳で、それぞれ Le Crépuscule des dieux, Crépuscule des idoles である。フランス語には « aurore » という語もあり、これは通常「曙光」と訳される。最初の朝の微かな光である aube の直後、少し薔薇色に明るみはじめた空の光が aurore である。両語とも「初め」「初期」「黎明期」などの比喩的な意味でも使われる。前者についてすぐに想起されるのが、ヴィクトル・ユーゴーの最も有名な詩の一つの冒頭である。娘が小学生だった頃、どちらが先にこの詩を暗唱できるか競ったことを懐かしく思い出す。

Demain, dès l'aube, à l'heure où blanchit la campagne,
Je partirai. Vois-tu, je sais que tu m'attends.
J'irai par la forêt, j'irai par la montagne.
Je ne puis demeurer loin de toi plus longtemps.

Je marcherai les yeux fixés sur mes pensées,
Sans rien voir au dehors, sans entendre aucun bruit,
Seul, inconnu, le dos courbé, les mains croisées,
Triste, et le jour pour moi sera comme la nuit.

Je ne regarderai ni l’or du soir qui tombe,
Ni les voiles au loin descendant vers Harfleur,
Et quand j'arriverai, je mettrai sur ta tombe
Un bouquet de houx vert et de bruyère en fleur.

 上掲の万葉歌は、難波の港で、日の出前に筑紫へと先発する船を見送っての詠歌。ものの輪郭もまだ見定めがたい薄明の中を遠ざかってゆく船の行方を思いやる気持ちと我が身のこれからの行く末の見定めがたさゆえの不安とが二重映しになった深沈たる秀歌。