岡潔の随筆集『夜雨の声』を取り上げた昨日の記事の中で言及した道元の偈頌について、大谷哲夫『道元「永平広録 真賛・自賛・偈頌」』(講談社学術文庫、2014年)に依拠しつつ、若干の感想を記しておきたい。
偈頌とは、「仏法の教説の一段または全文の終わりに詩句をもって陳べる韻文のことである。が、とくに禅門では五言あるいは七言の漢詩形で仏徳を讃嘆し、さらには禅の教義・見解を説示したものを総称して「偈頌」という」(大谷前掲書)。当該の偈頌全文を同書の表記のままに掲げよう(括弧内は異本の本文)。
生死可憐休又起(卍本 雲変更)
迷途覚路夢中行
雖然尚有難忘事(卍本 唯留一事醒猶記)
深草閑居夜雨声
生死憐れむべし休して又起こる(卍本 雲変更)
迷途覚路夢中に行く
然りと雖も尚忘れ難き事有り(卍本 唯一事を留めて醒めて猶記す)
深草の閑居夜雨の声
道元は、夢の世界も仏法の世界の範疇であると説く。二行目の大谷訳は、「迷いとかさとりというのも同じこと、それが二つ在るのではなく、一つの真実で取捨選択すべきものではなく、それは夢覚一如、迷悟一如で、夢中に往来したようなもの」となっている。三行目の「忘れ難き事」が何を指すのかについて、諸家の解釈は分かれているようである。いずれの解釈が妥当なのか、私にはもちろんわからない。
ただ、まったく予備知識なしに最初にこの偈頌を読んだとき、三行目の「忘れ難き事」とは、四行目の「夜雨の声」として今ここに現成している仏法そのもののことではないかと思った。今ここに雨が降っていてその音が聞こえているという事象の〈事なり〉は、忘れようにも忘れることができない真実だということなのではないか、と思ったのである。もちろんこれは表面しか見ない素人の誤読に過ぎないであろうけれど。