内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ささやかな創造の喜び ― ブログを続けることの意味について

2018-12-18 23:59:59 | 読游摘録

 岡潔の随筆集『夜雨の声』(「やうのせい」と読む。山折哲雄編、角川ソフィア文庫、2014年)には、その書名として山折哲雄によって採用された「夜雨の声」をその表題としてもつ随想集が巻末に収められている。「夜雨の声」というタイトルは、道元の偈の一つの最終行「深草閑居夜雨聲」から採られた(この道元の偈については明日の記事で触れる)。九つの小見出しが付けられたそれぞれ数頁ずつの随想からなる。初出は、『大法輪』(1973年7月)、その後、『日本の国という水槽の水の入れ替え方』(成甲書房、2004年)に収録された。
 角川ソフィア文庫版『夜雨の声』には、「春の日、冬の日」と題された随想集も収録されている。初出は、『朝日新聞』1965年5月2日~14日。その後、『岡潔集 第二巻』(学習研究社、1969年)に収録される。この随想集の中に「創造と喜び」と題された節があって、寺田寅彦が言うところの「発見の鋭い喜び」について岡が小学六年のころの自身の経験を例に説明している箇所がその中にある。
 岡少年は、長い間「おおむらさき」という蝶を捜し求めていた。ある日、その蝶を発見する。

 小学六年のころ、ある日山畑の端のクヌギの木の所に行ってみると、長い間捜し求めていた「おおむらさき」がとまっている。閉じていた羽根をおもむろに開くと、日の光が美しい紫色に鋭く輝く。私ははっと息を詰める。
 このときの喜びが発見の鋭い喜びである。その種類がよくわかるように拡大して説明する。道元禅師は『正法眼蔵』(岩波文庫、上)で「有時」ということを説明している。これはその刹那、その一点に、すべての時間・空間が凝集してしまって、そのためそれがすっかり中身のあるものになっているという意味である。「おおむらさき」を中心にしていっさいのものがあり、きらっと紫色に光った刹那を中心にしていっさいの時がある。このとき私は「おおむらさき」の存在を私の存在とともに少しも疑わなくなるのである。

 「発見の鋭い喜び」を経験すると、その瞬間、その時空の一点を中心として無限に広がる時空と己の存在とが疑いもなく直に確証される。誰にでも容易に訪れうる経験だとは言えないだろうが、天才だけに許された神秘的な経験ということでもないだろう。
 上掲引用箇所の直後に、寺田寅彦が研究者として自分独自の研究を始めてから感じるようになった生き甲斐(それは病弱だった寺田を健康体にさえした)についての言及がある。それは創造の喜びがもたらす生の跳躍と言ってもよいだろう。しかし、その反面、その「生み出す、つくり出すという働き」がまったく感じられなかった日は、「まるで一日が空費されたように」思われた。その創造の働きは、どんなささいなことであってもよい。「たとえそれがある文章で一字ニ字を置き変えるというごく些細なものであってもよい」のだ。
 岡はこの寺田の言にこう説明を加える。

 ある文章で一字ニ字を置き変えるというごく些細なものであっても、それが本当に創造であれば、全身に喜びを感じるのである。ちょうど一輪二輪の梅花であっても、それが本当に木から咲き出たものであれば、その上に満天下の春を感じるが、造花はどんなにたくさんであっても紙くずにすぎないのと同じである。

 今までこのように考えたことはなかったが、自分が毎日ブログの記事を書き続けているのも、たとえそれが誰からも顧みられることがなくても、たとえそれがどんなに些細なことであっても、自分における創造の喜びを感じる機会になってくれれば、それだけで生き甲斐が感じられるからなのかもしれない。