今年度から開講された学部最終学年通年必修科目の一つ「古典文学」の講義は、シラバス風に言えば、二つの学習目標を掲げている。一方で、古典文学を鑑賞するために必要な文学的基礎知識を身に付けた上で代表的な作品の原文に接すること。他方で、日本文学史全体を通観することができる統一的な「史観」を学ぶこと。後者に関しては、ただ一つの見方を与えるのではなく、いくつかの異なった(場合によっては対立する)複数の文学史観を提示し、文学作品はそれ自体で非歴史的に存在するものではなく、ある歴史観の中でしか読まれえないことを理解することがそのより正確な目標である。
このような目標に近づくために、近世文学史についてすでに四つの異なった文学史観を授業中に提示したが、その一つがドナルド・キーン氏がその記念碑的大著『日本文学史』の中で提示している文学史観である。できるだけ日本語のテキストに接する機会を与えるために、英語原文ではなく邦訳を授業では使ったのであるが、その訳文に違和感をもった箇所が二つあり、原文を確認して驚いた。
正直、「原著者から信頼されてるからって、調子に乗ってんじゃねえーよ!」(ここ、『チコちゃんに叱られる』の「ボーっと生きてんじゃねーよ」のトーンで読んでいただきたい)と訳者に言いたい気持ちになった。
誤訳とは言わない。それに、これまで拙ブログでも繰り返し述べてきたように、まったく誤訳のない翻訳など、まずない。あったとして、それは一点の非の打ちどころのない絶世の美女ほどに希少な宝石ようなものである。
そう認めた上でのこととして、以下に掲げる原文と訳文を比較していただきたい。
新しい文学の勃興が、政治的な意味での新しい時代の幕開きとはっきり平行を示すなどという偶然は、世界の歴史の中でも めったに起こらない。西暦一六〇〇年――つまり「天下分け目」の関ヶ原の役と軌を一にして起こった新しい文学は、そういう 意味できわめて例外的だったといえるだろう。
It seldom happens that the beginning of a new political era so exactly coincides with the creation of a new literature as in Japan about 1600, the year of the decisive Battle of Sekigahara.
訳文の「偶然」に対応する語は原文にはない。最初に訳文を読んだとき、この語に強い違和感を覚えた。なぜなら、政治的新時代の幕開けと新しい文学の創造との同時性は、確かに世界文学史の中でも稀な現象であるとしても、それは決して偶然ではないからだ。キーン氏自身、これが偶然だと考えていなかったことは本文を読めば明らかなことである。
訳者は、「偶然」という一語を加えて、気を利かせたつもりなのかもしれない。しかし、この一語の付加が示しているのは、訳者が肝心なことはなにもわかっていないということでしかない。「ひとりよがり」も甚だしい。なぜ、それ自体もっとシンプルで明快な原文をそのまま忠実に訳そうしなかったのか。こういう「でしゃばり」は百害あって一利なしである。
次の個所は、訳者の日本語の感覚のおかしさを示している箇所である。
時代をもう少し進めて、関ヶ原の役の十年前までさかのぼると、以後二百七十年間の徳川時代にやがて開花を迎える詩歌、散文、演劇のうちほとんどすべてが、家康が全国制覇の足がためをしているまさにその時期に、ほぼ決定的に方向づけられたということさえできる。
If we include the developments of the last decade of the sixteenth century, we can say that almost every form of poetry, prose, and drama that would flourish for the next 270 years had largely been determined, even as the Tokugawa rules were strengthening their hold over the country.
まず、「時代をもう少し進めて」に対応する表現は原文にない。それに、これは日本語の表現としておかしい。歴史の中でさらに古い時代へと立ち戻るとき、それを「時代を遡る」と言うことはあっても、「時代を進める」などとはけっして言わない。この表現は、まったく不必要であるばかりでなく、日本語として不適切である。これが自宅で身近な人たちとする他愛もないおしゃべりでのことであれば、目くじらを立てるほどのことではない。しかし、日本人には容易に書けないような記念碑的な大著『日本文学史』を書いてくれたキーン氏に対して、これではあまりに無礼ではないか。
翻訳には、「おしゃべり」も「でしゃばり」も「ひとりよがり」もいらない。