内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「彼は誰時」の哲学、真昼の哲学、黄昏時の哲学、そして深夜の哲学

2018-12-20 19:58:08 | 哲学

 先週金曜日のパリの出張の際、シンポジウムで司会を担当するセッションの開始時間まで少し余裕があったので、会場の EHESS のすぐ近くの Les Belles Lettres 出版社の本屋さんに立ち寄った。ここ数年、ネットで本を購入するようになってからは、新本を書店で購入することはほとんどなくなってしまった。Les Belles Lettres に立ち寄ったのも、時間潰しのためにただ書棚の本を眺めるためだった。
 ところが、最近刊が平積みしてある棚に、マルクス・アウレリウスの『自省録』の仏訳 Pensées pour moi-même が並んでいるのが目に止まった。 A5版よりやや小さめのその本の装丁は、黒地に白の細密版画風のデザインが施してあるだけのシンプルなものであったが、それでかえって気を引かれた。訳そのものは新訳ではなく、1925年に初版が出版された Trannoy 訳で、現代の専門家によって再読・補訂された版である。訳者には失礼な話だが、訳そのものにというよりも、装丁の品の良さと 9, 90€ というきわめて良心的な価格に惹かれて、パリ出張記念という名目で、久しぶりに本屋で新刊を定価で購入した。
 その日の夜、セッションを終えてストラスブールの自宅に戻ってから、その訳本のところどころを手元にある他の仏訳と邦訳と比較しながら読んでみた。偶然開かれた頁が第二巻第一節で、その節は、« Dès l’aurore, dis-toi d’avance » という一文で始まる。邦訳では、「あけがたから自分にこういいきかせておくがよい」(岩波文庫、神谷美恵子訳)、「早暁、今日という日に先立って己に言うこと」(講談社学術文庫、鈴木照雄訳)となっている。
 いくつかの仏訳で « aurore » あるいは « aube » という語が使われている箇所を電子版で検索してみた。それでちょっと思いついたのは、ストア派は、いわば明け方の哲学、言い換えれば、「彼は誰時」の哲学、と言えないかな、ということである。早朝、その日の目覚めたら、まず自分に言い聞かせるべきこと、その原則に従って今日も生きよと自分に命ずる哲学、という心である。
 そこから空想は勝手に広がってゆき、真昼の哲学、黄昏時の哲学、そして深夜の哲学と性格づけられる哲学もあるだろうと考え始めた。今の段階では、ただの思いつきにすぎないけれど、例えば、カントは早暁派、ニーチェは真昼派、ヘーゲルは黄昏派、デカルトは深夜派、かな?