内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

痛みに対する積極的態度(七)純化(その一) ― 受苦の現象学序説(26)

2019-06-06 17:51:41 | 哲学

 ようやく痛みに対する積極的態度の最終階梯、純化(purification)に辿り着いた。ここに、ラヴェルの精神の形而上学とそれと不可分の道徳哲学のエッセンスがある。ラヴェルにおいて両者は表裏一体であることがよくわかるところである。そこにいささか行き過ぎた精神主義を感じる人もあるだろう。
 第二階梯である深化の段階で、痛みは放下(dépouillement)と純化の手段であることがすでに示されていた。精神的生と放下・純化とがいつも結びつけられ、果ては両者が区別のつかないまでに同一化されるところまでしばしば行くのはなぜだろうか。それは、私たちの自発的生は、自然のあらゆる衝動と環境のあらゆる影響とに私たちを委ねてしまうのに対して、精神的生は、本来、それとは反対に、私たちの注意をそれらの自然的衝動や外的影響とは別の方向に向けさせ、私たちを存在させている活動の純粋に内的な実践へと私たちを向かわせるからである。
 ところが、一般には、意識そのものの性質は、意識が高次のものになればなるほど、私たちを豊かにするものだとほぼつねに考えられている。しかし、豊かになることは、ほんとうに本質的なことだろうか。豊かになることは、内的統一を脅かし、新たな獲得は、新たな危険を生み出すことでもある。
 いかなる領域においても、たとえそれがどんなに純粋なものであっても、魂は所有欲によって導かれてはならない。物質的財産を語るときのように精神的財産を語るのは、どのような場合も不都合な語り方である。肝心なのは、私たちが所有しているものではなく、所有物に対する私たちの態度である。所有物から自己満足や気晴らしの種を引き出してはならない。なぜなら、そうしてしまえば、私たちの人格は、成長するかわりに、解体されてしまうからだ。
 私たちが執着するどのような財産にも、私たちの所有物ではあるが、私たち自身ではない何かがある。それが私たちを私たち自身の外に引き出し、そこから私たちの虚栄も生まれる。確かに、所有物を放棄することは容易ではない。それが目に見えない自己財産であればなおのことである。例えば、知識、知性、徳性などがそうである。なぜなら、それらから私たちが引き出す満足は、物質的財産の場合に比べれば、利害得失とは無縁であるように思われるからだ。しかし、その満足は、多くの場合、より深く巧緻な虚栄でしかない。
 放下は、存在をその所有物から離れさせ、己自身へと内向させることにその意味がある。