内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

痛みに対する積極的態度(八)純化(その二) ― 受苦の現象学序説(27)

2019-06-07 23:59:59 | 哲学

 延々と続けてきた今回の連載も、今日の記事を含めてあと四回で終わりにする。それでちょうど三十回になるし、毎回だいたい同じ長さの記事で結論にまで到達できそうだからだ。
 痛みは、私たちにとって、その存在から余計なものを削ぎ落とすのに与って力がある。しかし、それが痛みの最初の効果ではないだろう。最初はむしろ逆だ。痛みは、まず、私たちに襲いかかる暴力であり、その痛みのせいで奪い取られた私の所有物への、それ以前には感じることのなかったほど強い執着を感じさせる。
 痛みによる純化の過程が始まるのはその第二段階においてである。そこにおいて、失ったものの現前感を取り戻そうとしながら、そのものの価値を魂の全力を挙げて量ることを私たちは強いられる。ここで、精神的活動が始まる。
 痛みによって失ったものが、結局ごくつまらないものだと思えるときがある。そのとき、痛みは鎮まり、私たちは解放感を得る。その場合とはまったく逆に、その感覚的現前が私たちから奪われた今になって、そのものの価値がいや増しに増大し、高められ続けるということがある。
 例えば、友人の死の場合である。失ってはじめて、その友人のことを知りはじめたとまさに痛感する。それまで、その友人のことをほんとうには愛していなかったと気づくことがある。そのとき、私たちが感じる痛みは、その性質を変える。痛みは深化し、精神化される。
 それは不毛な後悔ではない。その痛みは、私たちの魂をまるごと動かす。私たちにおけるその人の存在を生けるものとする。その痛みは、私たちがかつて探し求めていた、その失われた人との絆を今実現している。それ以前のあまりにも幸福で容易かった関係はそれを妨げていたのだ。なぜなら、その関係がほんとうの絆の代わりをしていたからである。