人が人を苦しめる仕方、人が人に苦しめられる仕方は、千差万別である。苦しみは、苦しめる者と苦しめられる者とが親しければ親しいほど大きい。苦しみは、個の多数性そのものにその根拠がある。この多数性ゆえに、人々の間にはけっして無化できない距離がいつもある。しかし、この距離こそがコミュニケーションを可能にしてもいる。苦しみは、また、個の多様性にもその根拠がある。この多様性ゆえに、個々それぞれのもっとも独自なものが個々の間のコミュニケーションの障碍になる。私たちがそのうちに入り込みたいものには入り込めず、私たちが与えたいと思っているものは受け取ってもらえない。
私たちのうちにある誰かと繋がりたいという気持ちが大きければ大きいほど、私たちを分断するものによる苦しみもまた大きい。私たちの絆が強ければ強いほど、その絆によってもたらされる苦しみもまた大きい。苦しみを共にする共感がそのよい例だ。
私たちは、不完全や不十分の徴、挫折のあらゆる印に苦しむ。それらは、私たちの中では、自分が愛されるに値しないことの証であり、他者にあっては、私たちの愛の無力の証だからだ。
共感が可能なのは、最初は離れ離れだと感じているからこそである。共感は、お互いがそれぞれの孤独の裡に閉じ込められていると確信しているときからしか始まらない。それ以前のいかなるコミュニケーションも無効だ。それぞれのもっとも侵し難い部分においてしか、お互い相手に対して働きかけることはできない。その部分において、与えるもの、受け入れるものは、羞恥の殻を破る。
異なった存在同士の個別性は、まず、物質的な作用として感じられる。触れられているのは他ならぬ私の体であり、私の個別的存在である。もっとも繊細な人たちにとって、触れられるということは、すでに身に傷を負ったと感じることでさえある。
二つの意志の間に生じうる接触についてはどのように言うべきだろうか。一種の慄き、溢れんばかりの期待、それに伴う身を苛むような不安なしに、他者が入り込める私の孤独も、私に開かれる他者の孤独も、考えられない。二人の人間の間のもっとも高次な共感の諸形式においては、ほぼ絶え間ない信頼と喜びがその主調である。しかし、そこにもなお、不安は残っていなくてはならない。なぜなら、その不安こそが、孤独の聖性の刻印であり、その孤独を乗り越える奇跡の徴だからである。
かくして、意識の頂点において、それまで互いに対立していて、意識の上昇の条件であった諸状態がすっかり融合する。別離は共感と一体であり、苦しみは喜びと一体である。