本題に入る前に一言。
2013年6月2日に開始して、幸い今日まで丸六年間一日も休まずに投稿を続けることができた拙ブログは、今日から七年目に入る。もはやすっかり習慣化し、生活の一部となった思考日誌である。これまで通り、無理をせず、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけ、かと言って、ものぐるほしくはならずに、淡々と寂々と続けていく所存。
さて、ラヴェルの話に戻ろう。
痛みの精神的意味は、その痛みの原因となった出来事の重大さには拠らない。その意味あるいは価値は、私たちが痛みをどう用いるかに拠る。何が理由か分からない、取るに足りないほんの僅かな痛みでさえ、すでに一種の形而上学的深みをもっている。すべては苦しむ者次第である。
身体の痛みは、まず、私たちに対して自己身体を顕現させる。私たちの身体感覚をこの上なく繊細なものにする。私たちの自己身体は、そのとき、モノとしてでもなく、障碍としてでもなく、その身体を生かしている生命の中に現前し、その生命は、私たちが自己自身についてもつ意識と不可分である。
私たちのうちのこの生命意識は、私たちにつねに伴っているのだが、しばしば不分明なままである。痛みがその生命意識を賦活する。痛みが私たちに発見させるのは生命そのものだ。痛みの変動、その増大・減少、激化・鎮静などを通じて、生命への激しい執着の中で、そして、痛みが私たちに今からすでにその準備を求め、いつの日か私たちに要求する諦めの中で、私たちは生命そのものの経験をしている。
つねに私たちに真の啓示をもたらす精神的苦痛については何と言うべきか。それは、私たちが愛するすべてを私たちに明らかにする。私たちの存在のもっとも秘された部分に潜む神秘的な力、冥闇な執着を明るみに出す。そうすることで、私たちの限界を収縮させるのではなく、逆に、それをたえず押し広げる。しかし、その役割は、私たちを拡大することよりも、むしろ深化させることにある。
精神的苦痛が私たちに与えるのは、対象認識とはかけ離れた認識である。対象認識はつねにある点まで私たちにとって外的なものに留まる。純粋な知は、つねに意識の表層にある。ところが、痛みは、私たちの内を下降し、価値と不可分な本質にまで至る。痛みは、そのときまで私たちの魂が委ねられていた他愛もないただの慰みごとに属する諸状態を一掃する。
痛みは、つねに厳粛なものであり、生命に厳粛さを与える。それは、しかし、痛みそのものがそれ自体によって善きものだということではない。痛みはむしろ何か善きものが奪い取られたということだ。しかし、何かを剥奪されたという意識そのものが、私たちの内的存在を穿ち、その内的存在の所有物を奪い、その存在自体へと退却させ、失ったものの意味をそこで発見させ、よりいっそうの意味を無限に惜しみなく与える。
痛みは、剥き出しのまま、私たちの意識に入って来る。痛みは、私たちの意識をその根っこまで抉る。痛みは、私たちが生命に与えることができる真摯さを測る尺度となる。その痛みの記憶はもはや残っていないとしても、痛みが与えた経験によって変わることができた人たちがいる。