痛みを魂の浄化・純化の一つの手段と見なす考え方はいつの時代にも俗信としてあった。例えば、悪いことをすれば必ず罰が当たるといった考え方の中にそれは見られる。しかし、罰は、応報や功利といった考え方に尽きるものではない。何か意図的に悪いこと・間違ったことをするとき、痛みを感じるのは、意識が不可分の一体であるからだけではない。乱された調和に対するいわば報いによってバランスを回復しようというわけでもない。古くからの俗信にあるように、痛みには何か浄化作用があると私たちは漠然と信じていないであろうか。何か不幸が身に降り掛かったとき、それが迷信以外のなにものでもないと知っていながら、いったい過去に何をしたから自分はこんな目に遭うのかと自問せざるを得ないのは、魂の自然な動きなのだ。良薬口に苦しと言われるように、痛みの苦さが魂の病を癒やすのだと思われる。
何ら光をもたらすことなく私たちを失意の裡に閉じ込めつづける誤ちが昔からずっとあったということで話は済まない。痛みが私たちを浄化・純化するとしても、痛みがどのようにそうするに至るのか、浄化・純化がそれによって実現される魂の動きに痛みはどのように付きそうのか、そう問うてみなくてはならない。そもそも、痛みそのものが浄化・純化作用を行うわけではない。薬の苦味が病を治すわけではないように。あらゆる浄化・純化、あらゆる治癒は、魂あるいは体の反応によって実現される。痛みはその反応の徴に過ぎない。
しかも、意識が働いているとき、被った痛みだけで誤ちが帳消しになると私たちは考えないだろう。痛みは、過去の誤ちを帳消しにするどころか、私たちをさらに悪い状態に陥れないともかぎらない。怒りをつのらせたり、恨みを懐いたりしないともかぎらない。
痛みが私たちを浄化・純化することができるのは、痛みが受け入れられ、痛みと誤ちとの間に本当の繋がりがあり、誤ちそのものが反省を通じて痛みを生じさせ、痛みを別のものに変容させ、結果として、痛みが被ったものであると同時に欲されたものでもあるときだけである。これはまさに改悛、悔い改めの定義にほかならない。
そうなると、体に加えられた罰は、魂が誤ちを犯したとき、映し・影のごときものに過ぎない。体罰がかなりはっきりと示しているのは、あらゆる痛み必ず有しているその有限性と受動性という性格である。しかし、罰は癒やしも治しもしない。罰は、誤ちを犯した者自身が己のうちに生じさせなくてはならない、いわば痛みの補填である。罰は、誤ちを犯した者に呼びかけ、覚醒させるためにあるのだ。ところが、罰はしばしば逆にその覚醒を妨げてしまう。
痛みが浄化・純化作用として機能するのは、痛みを受けた者がその痛みを科す者でもあるときだけである。