近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ (巻三・二六六)
言わずと知れた柿本人麻呂屈指の名歌である。第二句の「夕波千鳥」は、人麻呂の手になるもっとも美しい造語の一つである。原文でもこの通りの漢字四文字。たった四文字で、夕暮れ時、波間に群れてたわむれる、あるいは湖上を飛び交う千鳥の姿が見事に立ち現れる。第一句によって、場所は限定されており、琵琶湖上の広い視界の中にこの光景が現成する。その光景の中の千鳥に「汝」と呼びかけることで、たった一羽の千鳥がズームアップされる。その千鳥の呼子のような細く高い鳴き声が響く。すると心が撓み萎れるほどに〈いにしへ〉のことが思われる。
この〈いにしへ〉は、この歌においては近江朝以外ではありえない。今を去ること二十年ほど前には、湖畔の高台に壮麗な大殿・大宮が聳えていた。それが今はあとかたもない。
この歌は、薨じた都を偲び、栄枯盛衰を思い、人の世の無常の深さを詠っているのだろうか。あるいは過ぎ去った日々へのノスタルジーだろうか。しかし、撓み萎れる心に〈いにしへ〉は自ずと現前している。夕波千鳥という形象は、無常の象徴でもノスタルジーの誘因でもない、と私は思う。夕波千鳥は、今、ここに、いる。私はそれを、今、見ている。その鳴き声を、今、聞いている。
「現在が現在自身を限定することによつて、過去と未来とが限定せられるのである、現在といふものなくして時といふものはない」(西田幾多郎「永遠の今の自己限定」)。夕波千鳥は、永遠の今の自己限定の具体的形象として湖上に漂っている、そう私はこの歌を解釈したい。