内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「柿本人麻呂の無常観(二)―「見れば悲しも」近江朝興亡」

2019-06-19 09:36:46 | 詩歌逍遥

 柿本人麻呂の生没年は不明である。低位の官人であったために正史にはその名が見えず、その事績については、万葉集の中の題詞・左注など手がかりとして推測するほかない。天武朝にはすでに宮廷歌人としての活動を開始していたと思われるが、作歌は持統朝(686‐697)に集中している。文武期まで活動していたと思われる。没年は、八世紀の初め、おそらく平城遷都直前であろう。
 古代最大の内戦、壬申の乱(672年)のとき、人麻呂が何歳であったかは推測の域を出ないし、そのときどこにいたかもわからない。近江京は、前代までの都に見られない大陸風の大殿、大宮が湖畔の高みに聳え立つ壮麗さであったと想像される。その都が大和からの遷都後わずか六年にして灰燼に帰した。この「水沫の如き興亡」(金井論文32頁)が少年あるいは青年詩人人麻呂に深刻な影響を与えなかったと考えるほうがむしろ不自然であろう。
 たとえ実際には目にすることがなかったとしても、長じてから身に付けた知識や周囲の人たちから得られた情報を基に、類稀な詩的感性・才能に恵まれた若き詩人人麻呂は、近江京の壮麗さを生き生きと想像し、それを詩的言語によって表現することができただろう。ところが、人麻呂が宮廷歌人として活躍した天武・持統朝には、近江京は荒廃にまかせ、その復興はありえず、死せる都であった。
 この廃都を人麻呂が訪れたのは持統朝初年の頃である。壬申の乱後わずか二十年足らずの間に壮麗だったはずの都の姿はそこに見る影もなく、かつてそこで綺羅びやか衣装を纏って行き交っていたであろう大宮人の姿はもはや幻影でしかない。「失われたものは再び帰らぬとの実感が、再生の象徴である春草の繁茂を見るにつけても深く刻みこまれる悲しさを人麻呂は歌っている」(金井論文同頁)。
 それは巻一・二九の長歌のことである。その最後の十数句を引いておく。

天皇の 神の命の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 繁く生ひたる 霞立ち 春日の霧れる 

ももしきの 大宮所 見れば悲しも