内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「生きとし生けるものの悲哀 ― 哲学の根本動機について」

2019-06-28 23:59:59 | 哲学

 明日の発表の準備はほぼ整った。最近の発表ではいつもそうなのだが、結論はあえて書かない。書けないわけではない。いや、むしろそうだからこそ、書かない。書いてしまうと、発表の場ではそれを読み上げるだけになってしまいがちだ。授業でもそうなのだが、ノートを読み上げるだけでは言葉が死んでしまい、こちらの言いたいことが聞き手によく伝わらないことが多い。多少の言い淀みや言い間違いがあっても、そのとき自分の内側から湧き上がってくる言葉の方がより力を持ち、伝達力が高まる。聴いてくださっている方々により強く訴えかけるものになる。
 これは、時間が足りなかったことの言い訳ではない。時間は充分にあった。諸事に紛れて準備が間に合わなかったことを正当化しようというのでもない。発表の準備自体は数ヶ月前から始めた。何度も何度も同じ問題について考えた。そのうちに思考の断片が徐々にある順序にしたがって組織化され始める。
 その過程では、思い浮かんだことをそのまま書きつける。書きつける言語は発表言語と同じというのが原則だが、ある特定の言葉が考察対象となる場合は、発表言語が何であるかにかかわらず、その言葉を原語で記す。その言葉のまわりに関連する語句や文を書きつけていく。だから紙は大きいほうがいい。A4が原則。それ以上は机上でかえって邪魔になる。
 明日の発表のキーワードは « souffrance » だ。この語によって指示される経験が日本人にないわけではもちろんない。しかし、この語にはそれ固有の歴史があり、その歴史の厚みが日本語への翻訳を困難にする。他方、その困難さが問題をより明確に言語化するのを助けてくれることもある。

生きとし生けるものの底には死があり、悲哀があると云つてよい。

 これは西田の論文「自覚的一般者に於てあるもの及それとその背後にあるものとの関係」(初出1929年、翌年『一般者の自覚的体系』に第六論文として収録)の中の一文だ(全集234頁)。Jacynthe Tremblay は次のように訳している(Autoéveil. Le système des universels, Chisokudô, 2017, p. 350)。

La mort et l’affliction, pourrait-on dire, se trouvent au fond de tous les êtres vivants.

 「悲哀」を « affliction » としている。ここが問題になる。昨日引用した「人生の深い悲哀」は «la tristesse profonde de la vie » と訳している(La détermination du néant marquée par l’autoéveil, Chisokudô, 2019, p. 142)。しかし、affliction は、単に深い tristesse ではない。動詞 affliger(ラテン語 affligere から来る)から得られた名詞であり、何らかの災厄に襲われたときの悲しみであり、苦しみを伴う。つまり、 souffrance と強い類縁性がある。

叡智的ノエマ的に自己が限定せられることが苦悩であるとするならば、思惟的自己は苦悩に満ちたものでなければならぬ。

 上の引用部の少し先に見える一文である(全集234頁)。

Le soi pensant doit être rempli de souffrances si le soi déterminé conformément au noème intelligible est souffrance.

 「苦悩」に « souffrance » をあてている。妥当だと思う。明日の発表では、この二文の意味するところの解読が第四章の主な内容になる。
 これから発表までに残された時間、最後の詰めを行う。