内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

痛みに対する積極的態度(四)精錬・深化(その三) ― 受苦の現象学序説(23)

2019-06-03 19:08:09 | 哲学

 痛みが私たちの存在をよりきめ細やかで深みのあるものにするには、どのような条件が必要だろうか。それは、痛みを抑圧すべきもの、あるいはその言いなりになるだけのものと見なすかわりに、痛みを受け入れ、私たち自身の一部となし、私たち自身の発展の手段とすることである。
 痛みは、つねに欠乏や不足といった観念と結びついている。痛みは、私たちの困窮のあらゆる形を意識させる。だから、痛みに捧げることができる最大の賛辞は、もっとも惨めなのは、痛みを感じられないことだ、と言うことである。
 しかし、私たちにとって、痛みからの解放が問題なのではなく、痛みがその徴である不足を補うことが問題である。そのとき、痛みは、私たちの内的進歩の条件となる。というのも、意識は、何も安定的に保持することはなく、移行と通過でしかないからである。意識は、何ものによっても完全に満足することがない。意識がもっているものすべて、それを意識は自分に与え続けなければならない。
 痛みをただなくなればいい悪しきものと考えるときに私たちが容易に陥る最悪の幻想は、唯一大事なことは、何も苦しまない状態に戻ること、つまり、痛みが始まる前の状態に戻ることだと考えることである。しかし、そのようなことがありうるだろうか。意識は、すでに通過した状態を現在の欲望の対象とすることはできない。意識は、無-痛のような否定的な対象に全面的に己を方向づけることはできない。それでは、有よりも無を好むということになってしまうだろう。
 痛みが私たちにとって意味があるのは、痛みが、耐え難いものであるからこそ、私たちにそれを乗り越えた状態へと向かわせるときだけである。痛みを乗り越えたとき、それは、私たちにとって一歩前進であるが、その状態がそれだけの力や豊かさでありうるのは、私たちが痛みを経験したからこそである。
 どれだけ苦しむことができるかが、それぞれの存在にとって可能な上昇力の一つの尺度になる。
 もっとも低次な苦しみの次元では、人は身体的苦痛しか知らない。せいぜいそれを避けることしか頭にない。その苦痛をただ被ることしかできない。そのとき、苦痛の限界は、感覚の及ぶ範囲にとどまり、生命の抵抗力の限界を超えることはない。
 その対極である高次の苦しみにおいては、ほんとうに重要なのは精神的苦痛だけだと考えられる人たちがいる。精神的苦痛の可能性には限界がない。その可能性の増大は意識を伴う。苦しみが入り込むことができないような私たちの内的生の領域などない。何かを新たに獲得するとき、それは新たに傷つく機会でもある。
 私たちが持っているものと私たちが望むものとの間にこそ、苦しむ力がある。この力は、私たちの上昇力の裏面にほかならない。