痛みに対する積極的態度の第二階梯は、精錬と深化である。それらについてのラヴェルの論述はかなり長いので、今日・明日・明後日の三回に分けて見ていく。
痛みは、ときどき発生するそれだけを切り離すことができる状態であり、それだけを排除し、残りは、何らの損失を被ることなく、そのまま保存できると考えることは、私たちの意識についてのきわめて表面的な見方だとラヴェルは言う。ラヴェルによれば、私たちのすべての内的状態は互いに連関しており、私たちの存在の全体的統一を損ねることなしにそれらの状態を分別することはできない。私たちの価値は、私たちに与えられた喜びによってと同じくらい、耐えた苦しみによって決まる。
それだけではない。喜びと痛みとは、私たちが思っている以上に、相互に緊密に依存している。痛みの受容力は喜びの受容力と一体である。両者は感受性の分離不可能な両面である。麻酔剤を使用したときの状態がよく示しているように、痛みに無感覚になるときは、喜びにも無感覚になる。私たちがどれだけ苦しめるかは、私たちの繊細さの指標そのものである。
ほんの些細なことで人は傷つく。このつねに感じられる傷が、事物への接触に実に微妙な意味を与える。例えば、指先を怪我したとしよう。すると途端に、それまでは無意識にその指で触れていた諸事物が痛みとともに感じられ、私たちの注意を引く。痛みを感じないようにするためには、それだけ注意を払ってその事物に触れるようにしなければならなくなる。傷が与える痛みによって、事物の存在・意味・価値がより顕になる。知性と意志が働くすべての意識過程において、この直に感じられる痛みこそが、知性と意志とをかくも注意深くするのであり、知性と意志とに事物への接触と浸透を可能にする。
かくして、私たちは以下のことを理解する。痛みが私たちに顕にする諸感覚点、そして私たちの意識において感じられる痛み全体は、私たちの内なる切断されるべき冥闇で忌まわしい部分ではない。それらは、私たちにより多くの光を与え、私たちを取り巻く事物のもっとも上質な諸価値を明らかにすることによって、私たちの精神活動をより研ぎ澄まされたものにする。
しかし、ここで注意しなくてはならないことは、痛みそれ自体が原因として自動的にこれらの結果をもたらすのではないということである。つまり、多くの人にとって、痛みはつねに敗北であり、僅かな人たちにとってのみ、つねに新たな勝利の機会だということである。