苦艱から癒やされることは、魂にとってその内的転回である。この内的転回は、ほんの僅かでも思い出すだけで私を苦しめるのに十分な誤ちの記憶なしには生じ得ない。このとき、苦しむことは、そのまま浄化・純化でもある。自分の過去の所業について何も苦しまない人は悪から解放され得ない。
苦しみは、このとき、反省の結果である。改悛や悔恨の中には、たとえそれらがほとんどひとりでに生まれたものであっても、反省の場合と同様に、自己への回帰、過去の事実と所業についての再審問が含まれている。何も苦しまずに自分の過去を振り返ることは誰にとっても簡単なことではない。
過去を振り返るとき、悔恨と改悛とを区別することが大事だ。悔恨は、過去の誤ちが引き起こす痛みの中に私たちを閉じ込める。これから先についてのなんの展望もない。他方、改悛においては、過去を振り返るのは、未来はこれまでとは異なったものであってほしいと思うからこそである。このような改悛のみが私たちを変える苦しみである。この苦しみは、これからのすべての再開、すべての再生の始まりにある。
改悛は、ここで、意志と感受性との間のきわめて緊密な結びつきを示す。誤ちは、それが為された過去のある時においては、一つの自由意志による行為であった。しかし、今、それは過去に属する。私はその過去の行為に手が届かない。私になおもその過去の行為との関係があるとすれば、それは現在の感受性へのその影響によってである。つまり、私自身の受動的な部分においてである。私が自分のうちに今見出すのは、その過去の行為が遺しっていた痕跡だけである。
しかし、この痕跡が痛みを伴うのは、現在の私の意志によることであり、この意志は、過去に誤ちを犯した私と今の私とを同一化することを望まない。確かに、誤ちを犯したのは私だ。しかし、私が今苦しんでいるのは、過去のままの自分であることを受け入れないからだ。苦しみは、かくして、私を再生させる所為と一つに成る。それは効果的な苦しみである。つまり、私自身がそれを受け入れることで効力を発揮する苦しみである。悪しき者はこのような苦しみを知らない。善良な者は、その苦しみを消し去ろうとはせず、養い育てる。
ここに至って、痛みは、最初そうであったわけのわからない災厄であることを止める。痛みは、精神的苦しみとなり、私たちを悪から解放する。外から押し付けられたものではなく、自らの意志で引き受けられたものとなる。誤ちと苦しみとはそこで一つになる。誤ちの自覚、それが苦しむという存在様態なのである。誤ちの自覚は、解放力と浄化力をもっている。誤ちの自覚はすでに誤ちを超えているのだから。