6月6日に田辺聖子が亡くなった。その4日後、川上弘美が朝日新聞に追悼文を寄稿している。私が読んだのはデジタル版である。その文章のタイトル「田辺聖子ほど無常を書く作家を、私は知らない」が目にとまった。
私は田辺聖子の作品を読んだことがない。特段の理由はない。関心がなかったとしか言いようがない。1977年に刊行されたパロディ小説の『お聖どん・アドベンチャー』というタイトルには笑ったが、読みはしなかった。
追悼文の次の箇所は、無常という言葉を川上弘美がどのような意味を込めて使っているか、よく示している。
たとえば、ある小説の中には、一人の男を愛している女がいる。男も女を愛している。愛はすべてを豊かにする。仕事も、生活も、ものを食べることも、もちろん体を重ねることも、すべては愛のもとで、輝かしい。ところが、その輝かしさが永遠に続くことは、決してないのだ。時間が過ぎてゆくにつれ、美しかったものは爛熟し、爛熟したものは異なるものへと変化し、何ごともとどまることはできない。外圧からではなく、ただ時が流れたというそのことだけによって、二人のいた場所は崩れてゆく。
無常である。そうだ、田辺聖子は、無常を書く小説家なのだ。むろんわたしたち小説家は、誰もが無常を描く。けれど、田辺聖子ほど犀利に無常を描く作家を、わたしは知らない。「ユーモアあふれる」「大衆的な」「優しい」というような形容をされる田辺聖子は、たしかにその通りの小説を書くのだけれど、そのわかりやすくまた飄々とした中に、こんなにもせつない生々流転のことわりがあるということに、驚いてしまうのだ。
無常とは、生々流転のことわりのことである。もっと端的に言えば、万物にとっての真実にほかならない。それは、だから、受け入れるしかない。しかし、真実を悲しむ理由はない。ユーモアをもって、皆にわかりやすく、優しく、繊細に、その真実の諸相を描き出すこと、それが作家田辺聖子の仕事だった、ということなのだろう。