内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

なつかしさはノスタルジーではない(上)

2019-06-22 23:59:59 | 日本語について

 現代日本語の「なつかしい」とフランス語の nostalgie とは、懐旧という同じ意味を共有している。ところが、それぞれ原義に立ち返ってみると、両者は、情意のベクトルが真逆であることがわかる。
 「なつかし」は、動詞ナツク(懐く)の形容詞化した語である。『古典基礎語辞典』の解説をまず見てみよう。

ナツクは近寄り、密着して、親しむの意で、ナツカシの原義は、なつきたい、目前にある対象の身近に寄りたい、と思う気持ち、ナツカシの対象は、人・自然・物・動物など広い。人については、男性・女性、また同性・異性を問わず用いる。離れていたり、過去の存在である人や物事についての親近感から、目前にあるゆかりの物になつき寄りたいと思う気持ちをいう用法を経て、後に、目前にない対象、離れていたり過去のことであったりするものが慕わしく思い出される気持ちをいうようになった。

 第一の語釈は、「近寄りたい、身近にしたい気持ちのさま。心がひかれるさま」である。つまり、もともとは、懐旧の情とは無縁であり、今眼の前にあるものに心惹かれて引き起こされる感情であった。相手あるいは対象が、「こちらから慕い寄って行きたいさまをしている」(『旺文社古語辞典』第十版)ということである。

佐保渡り吾家の上に鳴く鳥の声なつかしき愛しき妻の声(巻四・六六三)

 これは、かわいい妻の声のうるわしさを褒めて「なつかしき」と詠っている。過去はここではまったく関係ない。家持の長歌「恋緒を述ぶる歌一首」(巻十七・三九七八)の冒頭「妹も我れも 心は同じ たぐへれど いやなつかしく」も、「寄り添っていても、ますます心引かれるばかり」(伊藤博『釋注』ということで、妻に対する今の気持ちである。
 「なつかし」が現在の対象に対する気持ちを表現している用例は、『枕草子』『徒然草』にも見える。

良ろしき男を、下種女などの誉めて、「いみじう懐かしうこそ、御座すれ」など言へば、やがて思い落とされぬべし(『枕草子春曙抄』第二九五段、三巻本では第三一一段)

 カギ括弧内は、「たいそう、心が惹かれるお方でいらっしゃること」(島内裕子訳)という意であり、現在のこととして、良ろしき男を褒めている。この場合も過去は関係ない。
 『徒然草』第百二十八段の「万の鳥・獣、小さき虫までも、心を留めて有様を見るに、子を思ひ、親を懐かしくし」も、「子は親を慕い」ということで、親に対する子の普遍的な心情を意味している。