今日の記事のタイトルの前半をご覧になって、何か聖書的な「匂い」を嗅ぎつけられた方ももしかしたらいらっしゃったかもしれません。ですが、タイトルの後半からわかるように、以下の話は聖書とは何の関係もありません。
もっと端的で普通の意味において、言葉は、ちょうど食べ物のように、私たちが生きていくためになくてはならない要素だというのがタイトルのこころです。例によって、「何を今更」的な話に過ぎません。
健康維持のために摂取する必要がある食物の種類がさまざまであるように、言葉にもさまざまな味わい・響き・肌理などがあり、その働きも多様です。同じ言葉が主食の出汁にもなれば、副食の隠し味にもなります。
辞書はさしずめ言葉の食材辞典です。語釈は、その言葉の生い立ち、その言葉がどんな栄養素からなり、どんな料理に合い、調理の際にどんなことに注意すべきかなどの情報を与えてくれます。用例は調理例です。誰でも使えるような簡単な用法もあれば、文学作品から採られたプロの手並みを「味見」してみることもできます。
辞書の中を「散策」していると、自分が普段から使い慣れていると思っていた言葉の意外な過去を知ったり、自分が正しいと思い込んでいた使い方が実は間違いであると気づかされたり、自分はそれでまでに出遭ったこともない珍しい食材を見つけて驚かされたりします。辞書に並んでいる言葉を眺めながら、それらからどんな料理が作れるか想像してみるのも楽しいことです。
個々の食材が品質のいいものであっても、調理が下手ではそれらが台無になってしまうように、美辞麗句を並べただけで「美味しい」文章ができるわけではありません。身近な食材のたくみな組み合わせと適切な味付けによって食べ飽きのこない一品を作ることのほうが日常言語の暮らしの中ではより大切なことではないでしょうか。
偏った食事を続けていると、しまいには体を壊すことがあるように、言葉遣いに無神経でバランスを欠いた話し方や書き方を続けていると心が荒んでくるように思います。これは他人事ではありません。美食ばかりしていると、味にうるさくはなるでしょうけれど、すぐに息切れするようなやわな体になってしまいかねないように、ここちよい言葉に酔っているだけでは、骨のない軟弱な何を言いたいのかよくわからない文章しか書けないでしょう。
毎日の食事を手抜きせずに作り食することが体の健康の礎であるように、会話でも文章でも、毎日の言葉遣いに気をつけることが心の健康の基本であると、今更なのですが、つくづく思い知らされている今日このごろであります。