福沢諭吉の『学問のすすめ』の Christian Galan さんによる仏語全訳が Les Belles Lettres 社の Collection Japon の一冊として出版されたのは一昨年2018年のことに過ぎない。初編だけは1996年に同じGalan さんの訳で Cent ans de pensée au Japon, tome 2, Philippe Picquier に収録されていた。この全訳は、フランス語圏における最良の訳者によるきわめて優れた達成である。
この全訳版には、訳者によるかなり長い序文と後書きが付されている。前者では『学問のすすめ』が出版当時に与えたインパクトの大きさについて説明され、後書きでは同書の内容と出版当時の政治的・社会的状況が丸山真男の福沢論に依拠しつつ説明されている。本訳書のおかげで、学生たちも明治時代の大「ベストセラー」の全貌を知ることができるようになった。
しかし、その見事なフランス語訳ゆえに隠されてしまう翻訳の問題があることを今日の授業で学生たちに柳父章『翻訳語成立事情』に依拠しながら説明した。明治初期の知識人たちが society を日本語に訳すのにどれだけ苦労したかは同書に詳しい。福沢も例外ではない。『西洋事情 外編』(1868年刊)で society を訳すのに「人間交際」「交際」「交(まじわり)」「国」「世人」などさまざまな語を充てている。
『学問のすすめ』の中で福沢が「社会」という言葉を使っているのはたった一回だけである。それは第十七編の次の一文においてである。
また一方より見れば、社会の人事は悉皆虚をもつて成るものにあらず。
現代語訳の一つ(佐藤きむ訳、角川ソフィア文庫)ではこうなっている。
また別の面から見ますと、社会の人間関係は、すべて中身のない偽りのものではありません。
原文の「社会」はそのままになっている。ガランさんの仏訳はこうなっている。
D’un autre point de vue, les affaires de la société ne sont pas toutes guidées par la vanité.
正確な訳だ。ところが、同じ段落のはじめの方の「かの士君子が世間の栄誉を求めざるは大いに称すべきに似たれども」も « Que ces hommes de grand savoir et de grandes vertus ne cherchent pas à devenir célèbres dans la société apparaît extrêmement louable » というように「世間」に対して société が訳語として充てられている。ここで問題になるのは、福沢においては「社会」と「世間」は対立関係にあることである(柳父書 p. 17)。つまり、福沢にとって「世間」は「社会」ではない。しかし、これは文脈からして、société の両義性としても解釈可能だから、さほど大きな問題ではないと言えるかも知れない。
私が学生たちに注意を促したのは、ガラン訳では152回 société という言葉が訳に用いられているが、上に見たように「社会」という語は『学問のすすめ』にたった一回しか用いられておらず、その他はすべて他の日本語を société と訳していることである。当時まだ「社会」という語が定着さえしていなかったことを知らずにこの仏訳だけを読めば、当時の日本にすでに société という概念が確立していたかのような誤解を抱く人がいてもおかしくはない。しかし、現実はまさにその逆であったのであり、だからこそ福沢も société という概念を日本語にするのにさまざまな工夫を凝らさざるを得なかった。
今は société という語が使われている表現の数例を初編から挙げるに留める。「人間世界」(sociétés humaines)、「世の中」(notre société)、「世上」(dans la société)、「世間の風俗」(les mœurs de la société)、「日本国中」(dans la société japonaise)。おそらく、société という語が用いられている全箇所をつぶさに検討していくことで、福沢の社会思想の特徴を浮かび上がらせることもできるだろう。