内的自己対話-川の畔のささめごと

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哲学的思考の型としての日記(一)― 回想録・自伝と日記との違い

2020-02-22 21:17:17 | 哲学

 回想録・自伝と日記との違いはさまざまあるが、その一つは天候についての記述が占める位置あるいはその重要性の違いである。前者の場合でも特別な日に関してはその日の天候が重要な意味を持つ場合があるにしても、回顧的にある時期を記述することがその主たる目的である以上、そこでは個々の日の天候よりもその時期の全体的な印象の方が勝る。それに対して日記においては日々の天候の記述も重要な構成要素であることが少なくない。
 この違いは所記行為としての両者の目的あるいは機能の違いから説明できる。回想録・自伝は過去の出来事とそれについての当時の感情を所記の時点から回顧的に再構成することが目的であり、日々の出来事ひとつひとつを事の大小にかかわらず叙述することはその目的に叶っていないのに対して、日記はその日その日の記録というのがその基本的な性格であり、そのときそのとき書き手が書き残すに値すると思ったことが随時記されていく。
 もちろん、日記であっても回顧性がまったく排除されているとはかぎらないし、回想録・自伝が歴史的現在における記述性によって彩られることもある。それぞれの範疇に一応分類されている諸作品には他の範疇の性質がまったく欠けているとはかぎらない。しかし、所記行為の型を分類するには時間の回顧的把握と同時進行的記述との違いが一つの基準になるとは言えるだろう。
 日記でも必ず天候の記述が重要な位置を占めるとはかぎらない。毎日の天候が記されている場合でも、それは単なる習慣に過ぎず、書いている本人は特に重要視していないこともある。しかし、同日の天候の記述が他の記述、特にその日の心的状態と明らかに密接な関係にある場合がある。この天候と心理の密接な関係は日本古典の女流日記文学では珍しいことではない。
 ところが、西洋の日記では事情が異なる。フランス語で « Livre de raison »(「台帳」「家長日記」などと訳される)と呼ばれる一家の家長が付ける家族の日録が登場するのは十六世紀であり、十六世紀半ばから十七世紀半ばまで広く行われた。イタリアでは一世紀早く登場しており、英語圏・ドイツ語圏でも同様の習慣がフランスとおよそ時代を同じくして行われた。
 その中には天候の記録ももちろんあるが、それと書き手の心理状態との関係が記述されることはない。もともとこの種の日記には書き手個人のことは書かないのが原則であった。そこに変化が見られるようになるのは十七世紀後半からである。この変化は「私たち家族」の記述から「私」個人の記述への移行を意味している。