内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

エックハルトの「離脱」から『イミタチオ・クリスティ』のラテン語原文という彼方へ

2020-02-15 23:59:59 | 読游摘録

 昨年末から今年のはじめにかけて一時帰国したとき、御茶ノ水駅前の丸善で12月の文庫新刊がずらりと平積みされた書棚の前を何度も行ったり来たりしながら、迷った挙げ句に結局買わなかった一冊が講談社学術文庫版の『イミタチオ・クリスティ』であった。仏訳は新旧二つ所有しているから、それらを参照しながらラテン語原文を読めばいいかと邦訳を買うのをそのときは躊躇った。
 ところが、今朝、「電子書籍版が値下げ中です。この機会をお見逃しなく」という宣伝メールの魔の手にいともたやすく引っ掛かり、ポチッと購入ボタンを押してしまった。原本は一九七五年に刊行された。西洋古典学の大家呉茂一と中世ドイツ文学研究の碩学永野藤夫の共訳である。それに今道友信による長い序文が巻頭に置かれている。これだけでも充分すぎる品質保証である。それが昨年末に文庫化され、先月電子書籍版が刊行されたばかりですぐに値下げということであれば、買わないわけにはいかないではないか、という例によって理由になっていない独り言をつぶやきながら購入した。
 聖書に次いで世界中で多くの人に読まれていると紹介されることの多い本書だが、聖書が二千年近くの歴史を持っているのに対して、本書は成立後五百年前後で、しかも著者が一人の慎ましい修道者であったことを思い合わせると、ここまで広く読まれ続けているのにはやはりそれだけの理由がなくてはならないと思う。この理由については今道友信の序文に委曲を尽くして説明されている。
 今日の午前中、仏語のエックハルト研究書を机上に積み上げ、それらを随時参照しながら、エックハルトの「離脱 abegescheidenheit (détachement) 」と禅仏教における「放下」の比較研究をテーマに選んだ人文学科の学生の小論文の序論を読んでいた。論文の指定枚数に対してテーマが大きすぎてとてもこのままでは論文の体をなさない。来週火曜日に面談することになっているが、そこでどう助言するか頭を捻っていた。その面談の準備として序論にコメントを添えて返信したときは、もう正午をまわっていた。
 午後は、エックハルトの離脱に近似する教えがあるかどうか探しながら『イミタチオ・クリスティ』を少し読んでみた。が、こういう読み方は本書には馴染まないというか、すべきではないのかなともすぐに思った。第一巻「霊の生活に役立つすすめ」第一章「キリストにならい、世の空しいものをすべて軽んずべきこと」最終節にはこうある。

眼は見るものに満足せず、耳は聞くものに満たされない(伝道一の八)というあの格言を、しばしば思い出すがいい。されば、あなたの心を見るものへの愛着から引きはなし、見えないものへ移すように努めなさい。なぜなら、自分の官能の欲にしたがう人は、良心をけがし、神の恵みを失うからである。(呉・永野訳)

Rappelez-vous souvent cette parole du Sage : L'œil n'est pas rassasié de ce qu'il voit, ni l'oreille remplie de ce qu'elle entend. Appliquez-vous donc à détacher votre cœur de l'amour des choses visibles, pour le porter tout entier vers les invisibles, car ceux qui suivent l'attrait de leurs sens souillent leur âme et perdent la grâce de Dieu.

Traduction d’Abbé Félicité de Lamennais (1824) 

 ラテン語原文は簡潔を極め、多数の訳者たちの仲介を経なければとてもではないが原文の含意にたどりつけない。

Stude ergo cor tuum ab amore visibilium abstrahere, et ad invisiblia te transferre. Nam sequentes suam sensualitatem maculant conscientiam, et perdunt Dei gratiam.