内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「世界が一つの美的な秩序のもとに統一されるという感覚を失ってしまうことは、端的に言って認識論上の誤りである」― グレゴリー・ベイトソン『精神と自然』より

2024-04-14 00:00:00 | 読游摘録

 ベイトソンの『精神と自然 生きた世界の認識論』(岩波文庫、2022年)のイントロダクションからの引用を続ける。英語原本は Mind and Nature. A Necessary Unity というタイトルでベイトソンの死の前年1979年に出版された。

 今、まだいかにも頼りないものではあるが、エコロジーの考え方が広がりつつある。この思想も、生まれるそばから政治と商業の場に持ち運ばれ、矮小化されてしまっているのが実情ではあるが、ともかくも、今なお人間の心の中に、統一を求める衝動、われわれをその一部として包みこむ全自然を聖なるものとして見ようという衝動が働いていることは確かである。
 目を広く見開いてみよう。かつて世界中にあった(そして今なおあり続けている)さまざまなエピステモロジーの中で、世界の最終的な統合をうたっているものがいかに多いか。まったく対照的と言えるほどかけ離れた見方であっても、この大きな軸だけは共有している場合がほとんどである。しかもその多くが、最終的統合の姿を美と見ている。最終的統合の輝きがかくも大きな普遍性を持っているということは、現代に君臨する量の科学ですらそれを消し去ることはできまいという希望を与えてくれる。
 世界が一つの美的な秩序のもとに統一されるという感覚を失ってしまうことは、端的に言って認識論上の誤りであるという考えに私は固執する。旧来のさまざまなエピステモロジーにもいろいろと狂ったところはあったにせよ、世界が根本で統一されているという前提は保持していた。その前提を放棄してしまうことは、誤りの重大さにおいて比類なきものであると訴えたい。(44頁)

 ベイトソンがいう認識論上の誤りを誤りと認めないばかりか、「世界が一つの美的な秩序のもとに統一されるという感覚」を失ったことさえ忘れてしまったのが「人新世」の特徴の一つであったと、もし地球が人新世の後も存続するなら、その時代の歴史家たち(彼らはもはや人間ではないだろう)は記述するだろうという妄想からは私は逃れられない。