内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「生けるかひありつる幸ひ人の光失ふ日にて、雨はそほ降るなりけり」―『源氏物語』若菜下より

2024-04-22 00:00:00 | 日本語について

 昨日の記事で「そぼふる」という動詞を使った。何気なく使ったのだが、記事を投稿した後に自分の使い方が適切だったかどうか気になりだし、手元にある辞書を片端から調べていった。
 小型国語辞典の語釈にはしばしば「(雨が)しとしと降る」とあるが、これは「しとしと」という副詞がどういう意味かわかっていることを前提とする説明だ。『三省堂国語辞典』の「しとしと」の語釈は「雨などがしずかに降るようす」。これで少しはイメージが湧く。『新選国語辞典』(小学館)は、「雨がしめやかに降る」としている。同辞書は、「しめやか」の第二の語義を「しんみりとしたようす」として、用例として「しめやかに葬儀がとりおこなわれる」を挙げている。『角川必携国語辞典』は「そぼふる」を「細かい雨がしとしと静かに降る」と説明している。「しとしと」に「細かい」と「静かに」という情報が付加されている。これらの情報から、「そぼ降る雨」と「しめやかな葬儀」という二つのイメージが重なって浮上してくる。
 「そぼふる」の語釈で異彩を放っているのが『新明解国語辞典』だ。「〔雨が〕強い勢いではないが、時間がたつとびっしょり濡れてしまう程度に降る」。この語釈に基づけば、「そぼふる雨」は、にわか雨ではありえない。一定の時間、しばしばかなり長時間にわたって、細かく、静かに、降らなくては、「そぼふる」とは言えない。
 「そぼふる」と濁るようになったのは中世以降のことで、平安時代までは「そほふる」と清音であった。手元の古語辞典の多くは『伊勢物語』の同一箇所(第二段)、「時は三月のついたち、雨そほふるにやりける」(時は三月一日、(ちょうど)雨がしとしと降る中を、(男は女に歌を)おくった)を用例として挙げている(現代語訳は三省堂『全訳読解古語辞典』に拠る)。この雨は、『伊勢物語』同段の文脈から明らかなように、春の長雨である。それを眺める男の歌にはどこか憂いがこもる。
 角川の『全訳古語辞典』(久保田淳・室伏信助=編)と小学館の『全文全訳古語辞典』(北原保雄 編)は、『源氏物語』若菜下から用例を採っている。「生けるかひありつる幸ひ人の光失ふ日にて、雨はそほ降るなりけり」(「この世に生きていたかいのあった幸せな人(=紫ノ上)が亡くなる日なので、雨はしとしと降るのですね。」現代語訳は小学館『全文全訳古語辞典』に拠る)という一文だ。これは、紫の上が亡くなったという噂を聞いた上達部が発した言葉である。この文脈でのイメージは、現代語の「そぼ降る」のもたらすイメージとも重なる。ここで「小雨がしとしと降る」以外のイメージは想像しにくい。
 ところが、である。名訳の誉れ高いルネ・シフェールの仏訳を見て一驚した。当該箇所の訳がこうなっているのである。

Le jour où une personne aussi favorisée par la fortune perd la lumière, rien d’étonnant que la pluie tombe à verse ! 

Éditions Verdier, 2011, p. 841.

 訳中の « à verse » は「土砂降り」を意味する。これでは原作のイメージのぶち壊しではなかろうか。この歴史的名訳にケチを付けたいという気持ちはさらさらないのだが、この誤訳を瑕瑾と言って済ますのはあまりにも寛容すぎないであろうか、と、現代ピアノ曲のアンソロジーが静かに流れる書斎の窓からそぼ降る雨を眺めながら、独り呟く偏屈老人で私はあった。