『拾遺和歌集』は、藤原道長による摂関体制最盛期を目前とした寛弘二、三年(1005、1006)頃の成立。花山院自撰とされ、『古今集』『後撰集』に次ぐ三番目の勅撰集。1351首収める。歌集としての知名度はさほど高くはないけれど、小倉百人一首に十首採られている。壬生忠見の「こひすてふ」、平兼盛の「しのぶれど」、藤原道綱母の「なげきつつ」など。
岩波文庫版『拾遺和歌集』(2021年)の歌林のなかを気の向くままに逍遥していて、斎宮女御の次の一首に行き当たる。
琴の音に峰の松風かよふらしいづれのをよりしらべそめけむ(雑上・451)
「琴の音色に、峰の松風の音が似通っているようだ。松風は、どの山の尾、どの琴の緒から、奏で始めたのだろうか」。詞書には「野宮に斎宮の庚申し侍りけるに、松風入夜琴といふ題を詠み侍りける」とある。野宮は、斎宮が伊勢下向の前に精進潔斎する仮宮。ここは村上天皇皇女規子内親王。この歌の詠み手はその母、斎宮女御徽󠄀子(ぎし)。四句、山の「尾」に琴の「緒」を掛ける。「庚申」は、「道教に由来する庚申待ちの行事。この夜に寝ると、体内にいる三尸(さんし)という虫が抜け出して、天帝にその人の罪を告げるとも、虫そのものが人の命を危うくするともいわれ、神仏を祭り徹夜する習俗となった。徹夜のため、詩歌管絃の催しも行われた」(岩波文庫版、73頁、152番歌の注より)この一首、塚本邦雄の『淸唱千首』(冨山房百科文庫、1983年)にも採られていて、「徽󠄀子の數多の秀作中でも、最も有名な一首。これまた後世、數知れぬ本歌取り作品の母となつた」とある(140頁)。