「日本思想史」の授業で「数奇」と「すさび(荒び・遊び)」の話を唐木順三の『中世の文学』に依拠しながら説明したとき、同書には『徒然草』からの引用や参照箇所はいくつもあるので、『徒然草』の原文に触れさせる機会はあった。長明のほうは、唐木書で参照した箇所には『発心集』からの引用はあっても『方丈記』からの引用はなく、前者の原文はピジョー先生の仏訳と共にニ箇所引用したが、後者には触れる時間がなかったことを少し残念に思っていた。
そこで、「おのずから」と「みずから」をテーマとする最後の授業でこのニ語の用例を『方丈記』から取ることにした。どちらもごく短い文で、古典文法の初歩しか習っていない学部生でも、仏訳に頼ることなく容易に理解できる。
暁の雨は、おのづから、木の葉吹く嵐に似たり。
もし、歩くべき事あれば、みづから歩む。
『徒然草』からもそれぞれ一例を挙げる。
よき人の物語するは、人あまたあれど、ひとりに向きて言ふを、おのづから、人も聞くにこそあれ。
一道にまことに長じぬる人は、みづから明らかにその非を知るゆゑに、志常に満たずして、つひに物にほこることなし。
古典文学も古典文法も同僚が専門家として同学年で担当しているので、私の授業ではあくまで思想史の一齣として取り上げたテーマの枠組みのなかで古典文学作品に言及するだけだが、それがきっかけで学生たちが『方丈記』や『徒然草』に関心をもってくれれば嬉しい。
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