体調はほぼ本調子に戻りました。今日の授業は午後四時から六時までの近世文学史。日中はその準備に没頭。大学に行く途中、市の中央にあるFNACに、今日届いた本、Maurice Pinguet, Le texte Japon. Introuvables et inédits, réunis et présentés par Michaël Ferrier, Seuil, 2009を取りに行きました(この本、フランス語では割りと最近の出版ですが、日本では1987年に邦訳が筑摩書房から『テクストとしての日本』として出版されています)。
授業を始めてから気づいたのですが、今日は、昨日よりもかえって鼻声で声が出にくかったのです。でも、今日の授業は三年生対象で出席者は二十数名なので、昨日よりも小さな声で話しても通りましたので大過ありませんでした。
今日のお題は、先週の続きで「俳諧」。これはこの講義で私がもっとも力を入れているテーマです。今年で担当三回目になりますが、毎年授業中に示すテキスト数が増えて、ますます時間がかかるようになっています。許されることならば、一学期間、俳諧についてだけ話したいくらいです。今日は、特に、なぜ「風雅」が俳諧の別名になっていくのかを、古代中国文学史から説き起こし、中世・近世における「風狂」の思想史の中に芭蕉の風狂精神を位置づけるところまでを説いたのですが、その過程で『笈の小文』序文を読ませたりと大わらわでした。
こういう思想的にかなり立ち入った話をすると、だいたい教室の空気は二分します。完全にスイッチが入ったと思えるほど集中して聴いてくれる学生と、完全リタイア組にです。後者はただ私の言葉が頭の上を通り過ぎていくのにまかせているだけです。それに対し、前者は、ノートを取る手をときどき休め、自分で真剣に考え始めているのが見ていてわかります。今日はそういう意味では手応え十分の授業でした。
さて、この授業で私が必ず読ませる文章の一つに、小西甚一の『俳句の世界』(講談社学術文庫、1995年)の「はじめに」があります。今日の授業では、その第一節「俳諧と俳句」の一部を読ませました。それは次の箇所です。
平安時代以来、作る者と享受する者とがはっきり別である種類のわざは藝術にあらずとする意識が、根づよく存在した。もちろん、その反対は、藝術なのである。いまわたくしたちは、画や彫刻を藝術だと意識する。しかし、それらは、昔の人たちにとっては、けっして藝術ではなかった。それらは工藝品にすぎず、その作者たちは工(職人)なのである。かれらにとっての藝術は、書であった。書の巧みな人は、りっぱな藝術家として尊敬された。なぜなら、書を享受する人は、同時に書を制作する人だからである。和歌も藝術であった。和歌を作る者が、同時に和歌を享受する人だからである。しかし、物語(小説)は、藝術でない。なぜなら、自分で物語を作る者だけが物語を享受できるとは決まっていないからである。その意味において、俳諧は、藝術であることができた(20頁)。
「作る者=享受する者」たちが構成する閉じた世界が成立していれば、藝術、そうでなければ、非藝術という区別は、日本文藝史にとって根本的だというのが小西の文藝史観です。ここには、しかし、トリックがあります。なぜなら、日本において、「藝術」という概念は近代の産物であり、しかもそれはもともとはリベラルアーツの訳語として西周によって案出されたものであり、したがって、それを近代以前の日本文藝史に導入するのは二重の意味でアナクロニズムだからです。平安朝の歌人も書家も、自分たちの歌や書を「藝術」だなどと考えたことは、だから、ただの一瞬もなかったはずです。
それでは、この「藝術」という概念の近代以前の日本文藝史への導入は、小西の時代錯誤的誤謬なのでしょうか。もちろんそうではありません。語弊を怖れずに言えば、小西は確信犯的にこの概念を導入しているのです。つまり、「俗」に対する「雅」、さらには、雅俗混淆体である「俳諧」をも含めたカテゴリーとして「藝術」という概念を用いようとしているのです。
私は、小西による日本文藝史への「藝術」概念の導入を基本的に支持します。しかし、近世文学史においては、俳諧の大衆化・川柳の流行・狂歌師の社会的立ち位置等を十全に把握するには、藝術と非藝術との間に、「間藝術」あるいは「非雅・非俗」という文学領域をいわゆる俳諧よりも拡張された領域として認めることが必要だろうと考えています。