内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

東京での来年度前期集中講義の目的と内容

2017-02-08 00:08:07 | 講義の余白から

 昨日の記事の末尾で、この夏で七回目となる東洋大学大学院哲学科での集中講義に一言触れたので、この機会に、すでに大学院教務課に提出済みのシラバスから「講義の目的と内容」の項を下に掲載しておく。


自然・技術・芸術 ― 自然の創作

 本講義は、現代社会における自然・技術・芸術の相補的関係構築の可能性について考察することをその目的としている。
 サブタイトルの「自然の創作」という表現は以下のような両義性をもっている。自然が何かを創り出すという意味と何か或いは誰かが自然を創り出すという意味とである。前者の背景には、人類の生誕以前に、あるいは、人類とはまったく無関係に、自然が己自身の中に生み出す、人間には真似のできないような様々な形はすべて自然の創造であるという考え方がある。それに対して、後者の意味は、自然がまさに自然として対象になったのはルネッサンス期の画家たちの仕事によるのであり、したがって、自然(という対象)は人間によって作り出されたのだという絵画史家たちの主張の中に見られる。「自然の創作」は、さらに、自然の内にもともとはない形が人間によって生み出される創造行為という意味でも用いられることがある。
 自然の中の形の生成に見られる作用性・媒介性・道具性を技術性の起源として捉えるとき、自然と技術との関係は、対立的なもの・相互に排他的なものとしてではなく、相互内在的なもの・相補的なものとして考えることができる。このような考え方に拠るとき、自然に適用される技術の自然内在的な媒介性、すなわち自然のうちに眠っていた要素を一定の操作を加えて励起して自然自身に適用するという、自然の自然に対する創案的関係を成立させる役割を見ることができる。
 技術は、与えられた自然の中に新しい形を作り出す。したがって、技術そのものは自然に対立しないし、それを破壊しもしない。ある技術が自然に対して破壊的に働くことがあるのは、技術に内在する規範性から逸脱する不当な仕方でそれが悪用されているときである。技術がその内在的規範性にのみ従って実行されるとき、それは自ずと倫理的意味を示す。新しい技術の媒介によって、自然は、人間がそれまでにはない仕方で参加可能なものとなりうる。技術の媒介によって新しい形を産み出し続ける自然は、技術の自然に対する優位を示しているのではなく、自然が人間を無限に超えたものへの開けであることを、そして、人間はその常に生成する自然の中の創案的要素として働きうる存在であることを示している。
 このような視角から、自然に対する芸術的創造行為の意味も技術との比較の上で再検討されうるだろう。












「超人間」あるいは「人間以後」を考えるためのエンサイクロペディア ― Encyclopédie du transhumanisme et du posthumanisme

2017-02-07 06:43:14 | 読游摘録

 Gilbert Hottois, Jean-Noël Missa, Laurence Perbalの監修による L’humain et ses préfixes. Une encyclopédie du transhumanisme et du posthumanisme, Vrin, coll. « Pour demain », 2015 は、大変野心的かつ極めて興味深い企画である。
 科学技術が人間の生存の仕方に現在もたらしつつあり、今後ますます多様かつ発展した仕方で引き起こすであろう諸種の変化は、人間の定義の変更さえも迫ることになるだろう。科学の進歩とともに、人間はどこまで変わっていくのか、どこにその限界があるのか。Transhumanisme の信奉者であれ、その批判者であれ、これらの問いは避けて通れない。生物としてのヒトは、古生物たちと比べれば、それらとは似ても似つかぬほどに「進化」しているのだから、現在のヒトの形がそのままであるとはかぎらない(もっとも、それまで地球がもつかどうかという別の大問題があるが、今はそれは措く)。現代の私たちは、実際、 posthumanisme の時代に入ろうとしているのかも知れない。
 このような状況認識を共有したフランスとベルギーの28人の哲学者・生物学者・医学者たちが、人間そのものをめぐる現代の科学的状況をそれぞれの専門の観点から解析し、その上で哲学的・倫理的・社会科学的な考察を展開している。
 事典のような形式が採用されており、問題となる諸概念が目次を見れば一目瞭然になっている。全体が三部に分けられており、第一部が「哲学と倫理学」、第二部が「科学技術と改良医学」、第三部が「技術、芸術、サイエンス・フィクション」とそれぞれ題されている。
 第一部では、trans/posthumanisme に関わる哲学的・倫理的議論が主題的に取り上げられている。 « Trans/posthumain » という概念を積極的に肯定する立場とそれを真っ向から批判する立場とが公平に紹介されている。
 第二部では、第一部での議論が、医学・生物学・遺伝子工学の現場で、さらにはスポーツの分野で、どのような問題として提起されているか、これからされうるかが通覧されている。そして、それらの現場での現実(近い将来の現実も含めて)と空想的思弁(それが楽観的であれ悲観的であれ)とを区別することに特に注意が払われている。
 第三部では、科学技術と芸術的創造との相互作用が主題とされている。とりわけ、trans/posthumain に関わるテーマが頻繁に取り上げられれるサイエンス・フィクション(漫画やアニメも含まれる)と科学技術との関係に多くの頁が割かれているのが注目される。
 この夏の東洋大学大学院哲学科での集中講義で取り上げるテーマとも密接に関連しており、私自身の現在の哲学的問題関心にとって重要な示唆を与えてくれる貴重な文献の一つである。












哲学することなしに哲学史を語ることはできない ― アラン・ド・リベラ『中世哲学はどこに行くのか?』

2017-02-06 16:30:08 | 読游摘録

 2013年3月コレージュ・ド・フランスの「中世哲学講座」の教授に選任されたアラン・ド・リベラの開講講義(leçon inaugurale) « Où va la philosophie médiévale ? » は、翌年2014年2月13日に行われた。同講義は、コレージュ・ド・フランスの公式サイトでヴィデオを観ることができるし、ダウンロードもできる(こちらがそのURL)。その全文はこちらのサイトで読むことができるし、同じくダウンロードもできる。ヴィデオも原稿全文もすべて無料である。これはコレージュ・ド・フランス創立時からの講義の基本方針「万人に無料で開放」とも合致する。同講義は、文庫本サイズの小冊子として講義と同じタイトルで Fayard 社から出版されてもいる(こちらが出版社の紹介頁)。印刷された本文は、講義の際に実際読み上げられた、あるいはその場で多少の変更が加えられたり言い直された原稿とは細部において若干異なるが、内容は同一である。
 因みに、アラン・ド・リベラの講義・演習に限らず、コレージュ・ド・フランスの2005年からの講義・演習・講演などの多く(現時点で7674点)が同じサイトで視聴できるようになっている。これは膨大な知的財産であり、それらが世界中どこからでもアクセスできるようになっているのは慶賀の至りである。サイトの言語は、仏語、英語、そして第三の言語は中国語である(その理由は詳らかにしないが、潜在的な訪問者の数の多さを世界人口に占める割合から判断してのことなのか、中国政府から多額の寄付があったからなのか...)。
 開講講義の際には引用されることのなかったオスカー・ワイルドの Intentions からの一文 « The only duty we owe to history is to rewrite it » が原稿の冒頭に置かれている。これはアラン・ド・リベラの哲学史家としての姿勢をよく示していると思う。歴史から学ぶということは、歴史を新たに書き直すということであり、哲学史の場合、それは、過去の時代に生きられた哲学に学びつつ、現在において哲学をやり直すことにほかならない。
 開講講義の末尾近くの一節を多少端折って意訳すれば、以下のようになろうか。

 中世哲学はどこに行くのか。それは哲学がある場所へと行く。それは哲学が行く場所にある。それが中世的なのは、中世という時代を経たからである。その時代、つまりその時代を生きた人たちにとっての「現代」には、「中世」哲学は、端的に哲学であった。今日、その歴史を語り(relater)たい者、つまりその歴史を関係づけ(mettre en relation)たい者が行くべき場所にその哲学は行く。中世の初期から近世・近代を経て現代へ、そしてその彼方へ、様々な哲学の時と場所とを経ながら、哲学は長い旅をする。

 一言で言えば、哲学史は哲学の長い旅であり、哲学史を学ぶということは、哲学の旅に自ら出ることである。











反時代的考察を深めるために碩学たちの声に耳を傾ける ― リークル vs カストリアディス、レヴィ・ストロース、ノルベルト・エリアス

2017-02-05 20:52:48 | 読游摘録

 EHESS 出版局から刊行されている叢書の一つに « Audiographie » という袖珍本シリーズがある。8ユーロから9,8ユーロと値段も手頃。2011年に創刊され、年二~四冊という刊行ペースで、これまでに十七冊出版されている。近現代の碩学たちが講演、談話、講義、対談等の形で当初口頭で発表した言説、あるいはそれまで一般には公表されていなかった音声記録の公刊がその目的である。それらの記録から起こされた原稿の前に、それぞれの碩学をよく知るスペシャリストによるかなり詳細な解説的序論が付されるというのが一冊の基本的な体裁である。
 昨年は三冊出版された。カストリアディスとリクールとの1985年の対談 Dialogue sur l’histoire et l’imaginaire social、レヴィ・ストロースのモンテーニュに関する二つの講演(1937年と1992年)を収めた De Montaigne à Montaigne、ノルベール・エリアスの1985年の講演 Humana conditio の三冊である。
 最初の一冊は、リクールが当時 France Culture で担当していたラジオ対談シリーズ « Le bon plaisir » にカストリアディスが招かれたときの両者の対談。同番組でのリクールは、彼の著作が与えるイメージとは異なって、対談相手にかなり鋭く迫ることも度々あったようだ。例えば、相手がレヴィ・ストロースのような巨匠であったとしても。カストリアディスとの対談も例外ではない。社会改革の直接的実践についてラディカルな姿勢を崩さないカストリアディスに対して、リクールはそれに劣らぬ徹底性をもって媒介性の必然性を擁護する。
 二冊目は、後の著名な人類学者になる前の若き日の講演と公衆の面前での最後の講演の一つが収録されている。そのいずれもがモンテーニュを主題としており、レヴィ・ストロースの人類学的思考の根本にモンテーニュ的な人間の生態への眼差しがあることがわかる。
 三冊目は、87歳のエリアスが1985年に第二次世界大戦後四十年という機会に請われて行った講演記録。この講演の全原稿が仏訳され公表されるのはこれが初めて。この講演の中で、この二十世紀を代表する社会学者は、なぜ戦争は起こるのか、なぜ人類は繰り返し野蛮へと逆行するのか、という今もなお根本的であり続ける問いを正面から問う。そこに最終的に提示されているのは、しかし、一つの希望の倫理である。それは次の一言に集約されている。「人間たちは死をなくすことはできない。しかし、殺し合いを止めることは確かにできる。」












活字から聞こえてくる生ける哲学者の声 ― ベルクソン『時間の観念の歴史 コレージュ・ド・フランス講義録 1902-1903』

2017-02-04 22:36:06 | 読游摘録

 「謦咳に接する」という表現がある。「尊敬する人の話を直接聞く。あるいは、直接、お会いする」というのが一般的な辞書的意味である。この意味では、その人が生きているときにしか、謦咳に接することはできない。ところが、今日では、技術的進歩のおかげで、会ったこともない過去の人物が語っている姿をその声を聴くとともに映像で見ることができるようになっている。もちろん、これは本来の意味で「謦咳に接する」ことではない。しかし、例えば、書物でしか知らなかった著作家の映像を見ると、それだけで書物からは得られなかった何かが伝わってくることがないであろうか。
 他方、ある著作家について、その人が書いたものを読むことで得られるのは違ったことが、その人が話したことの記録を読むことで得られるということもある。それは、しかし、書物の中には見出せない内容がその記録には語られているという理由だけに因るのではない。肉声で語るという身体的表現そのものによって伝わる何かがあるのであり、それはたとえ事後的に紙上に印刷された書物の形ででも伝わることがある。
 ちょうど今から一年くらい前に、ベルクソンのコレージュ・ド・フランスでの講義録の第一冊目 Histoire de l’idée de temps. Cours au Collège de France 1902-1903 が PUF から出版された。ベルクソンの同時代的名声を高からしめた、かの有名な「伝説的な」講義録が、プロの速記者たちの手によるほぼ完璧な記録を基に出版され始めたのである。
 そこに私たちが読むことが、いや、聴くことができるのは、生ける哲学者ベルクソンである。過去の大哲学者たちの所説を明晰に説明していくその鮮やかな手際、そしてその合間にさり気なく挟まれる独自の創見は、単にそれらがベルクソンの生前に出版された著作の中には見出されないから貴重なのではない。生きている哲学者の思索の姿が、その声を聴く者を自ら考えることへと誘わずにはおかない生ける哲学がそこに息づいているからこそ、掛け替えがないのである。











思想史の方法としての伝記 ― ミカエル・リュッケン『中井正一 日本における批評理論の誕生』

2017-02-03 23:17:54 | 読游摘録

 中井正一(1900-1952)の人と思想を、その生涯を包む歴史的文脈の中に位置づけながらその全体像を描き出した日本語の著作があるのかどうか、私は寡聞にして知らない。しかし、それを見事に実現した仏語の一書がここにある。Michael Lucken, Nakai Masakazu. Naissance de la théorie critique du Japon, Digon, Les presses du réel, coll. « Délashiné », 2015 がそれである。
 国会図書館副館長としての激職の渦中で病に倒れ、働き盛りの五十二歳で早逝したこの実践的哲学者・批評理論家が日本で高く評価されていたのは一九六〇年代のことであった。それから半世紀が経ち、近年日本でもメディア論の分野で再評価の気運が高まっているとも言われるが、出版事情を見るかぎり、まだその緒についたとさえ言い難い(例えば、アマゾンで検索してみると、現在刊行されているのは中公文庫版『美学入門』だけであり、一九九五年に刊行された岩波文庫版『中井正一評論集』も現在は古本でしか手に入らない。
 一人の思想家の思想だけを概念的に論じるだけでは、歴史の中の一つの思想の運命は語りえない。一つの思想の真実は、その思想家の生涯において事実生きられた現実の中にこそある。リュッケン氏のこの労作は、まさに中井正一によって生きられた独自な思想の伝記である。この伝記というスタイルは、生きられた思想の真実を伝えるための一つの自覚的な方法論の実践にほかならない。
 本書をよき案内役として、こちらの学生たちに中井正一の原文に触れさせたいとの思いから、来週から始める修士一年の「近現代思想」の演習では、中井正一の『美学入門』をテキストとして取り上げる。しかし、死の前年の一九五一年に出版された同書が中井美学の集約であるとしても、中井思想の最良の部分はやはり「委員会の論理」に代表されるだろう。
 例えば、家永三郎は、『田辺元の思想史的研究 ―戦争と哲学者―』(一九七三年刊。『家永三郎集 第七巻 思想家論3』一九九八年刊所収)の中で、中井らが一九三五年に創刊した『世界文化』に触れている箇所で、次のように中井の業績をきわめて高く評価している。

彼らの執筆した文章の中には、戦時下の抵抗としてみごとな姿勢を示しているというばかりでなく、哲学理論としても日本哲学史上今日なお高く評価されているすぐれた業績が多くふくまれている。三六年一月号から三月号にわたり連載された中井の「委員会の論理」のごときは、その最たるものであった。きわめて短い分量の中に、世界史の発展とそれに対応する新しい論理の形成という雄大で独創的な論理思想史を背景として構想された委員会の論理は、日本の哲学者の保守派にはもちろん、進歩派にも全く類例のない高度な創見にみちみちている。(一五三頁)

 この論文「委員会の論理」もリュッケン氏の手によって仏訳され、詳細な脚注とともに、 European Journal of Japanese Philosophy, Nubmer I, 2016 に掲載されている。


自然の誕生 ― ナデージュ・ラネリー=ダジャン『自然の創始』

2017-02-02 17:46:38 | 読游摘録

 今日紹介する本は、昨年11月にあるシンポジウムで発表したときに、その原稿を準備する段階で参照した本の中の一冊です。より正確には、「参照した」というよりも、その本のタイトルを自分の発表のタイトルとして「拝借した」と言ったほうがいいでしょう。ただ、発表の際には、ちょっと格好をつけて、それをラテン語に訳して« Inventio naturae » として、仏語のタイトルは括弧に入れましたけれど。
 その本とは、Nadeije Laneyrie-Dagen, L’invention de la nature, Flammarion, coll. « Tout l’art », 2010(1re édition 2008)です(こちらが著者の履歴書です)。
 この本の主題は、中世末期からルネッサンス初期にかけて起こった自然像の根本的転換を絵画の歴史の中で追究することです。中世末期までは、抽象的に考案され思念されてきた構成要素「地・水・火・風」による理論的な考察の対象であった自然が、まさに目の前に展開される或いは現に自分たちを取り巻いている自然として、注意深い観察の対象となっていくルネッサンス期に起こる世界像の根本的な転換を、豊富な絵画の実例を美しい図版で示しながら論証していきます。美術史の豊かな学殖と文明史的な深い洞察とが見事に調和した名著です。
 中世末期からルネッサンス初期にかけて起こった自然像の転換(それは取りも直さず世界像の転換でもあります)において決定的に重要な役割を果たしたのは画家たちであったと著者は主張します。十四世紀から、ジオット、アンブロージョ・ロレンツェッティ、そしてリンブルク兄弟、ヤン・ファン・エイク、ついにはデューラー、レオナルド・ダ・ヴィンチへと至る画家たちは、己の画家としての仕事の目的として、取り巻く自然物を模倣することを己に課しました。彼らはもはや〈地〉〈水〉〈火〉〈風〉を想起することなく、波、急流、水滴、湖などをそれぞれに区別し、様々な形に変化する雲、強かったり穏やかだったりする風をそれぞれに表象し、泥、岩、炎、煙突の中の煙、家屋を焼く火事を描き分けます。
 これらの画家たちの作品がそれを観るものに自覚させたことは、世界の美しさと同時にその壊れやすさでした。〈自然〉という感情は、おそらく、この目に見える危機(それは取りも直さずヨーロッパの危機にほかなりません)から、この時に生まれたのだろうと著者は言うのです。
 本書は、自然の風景というジャンルの起源を探索することをその主たる目的としていますが、その作業を通じて目指されているより深い目的は、環境問題と自然破壊の恐怖に付き纏われている、私たちが現に生きている近代世界の起源の探究にほかなりません。












失われた沈黙を索めて ― アラン・コルバン『沈黙の歴史』

2017-02-01 23:35:41 | 読游摘録

 アラン・コルバン(Alain Corbin)は、その主要な著作の多くが日本語にも訳されているのでご存知の方も少なくないでしょう。現代においてアナール学派の思想と流儀を受け継いでいる歴史家の中の代表的な存在です。香り・音・風景・無名の犯罪人など、それまで歴史研究の対象になりにくかったテーマを積極的に取り上げて目覚ましい成果を挙げてきた、まさに切れ者歴史学者です。
 そのコルバンが、今度は、沈黙をテーマとした一書を昨年上梓しました。原書のタイトルは、Histoire du silence de la Renaissance à nos jours、出版社は Albin Michel です(これもまた魅力的なテーマですから、きっともうどなたか邦訳出版に取り掛かっていらっしゃることでしょう)。
 沈黙そのものは歴史を語りません。だから、沈黙の歴史とは、沈黙がいかに生活の中に組み込まれ、その中でどのような地位を与えられてきたかの歴史ということです。
 沈黙は、単なる音の不在ではありません。沈黙は、私たちのうちにあります。沈黙は、過去の偉大なる作家・思想家・学者・信仰者たちが己の内に築いてきた内なる城塞の中に息づいています。
 あらゆる空間に音がとめどもなく侵入してくる現代にあって、コルバンは、言葉が稀なるもの・貴重なものであった時代の歴史に立ち戻ります。なぜなら、沈黙は、瞑想・夢想・祈念の可能性の条件であり、私たちにとってこれ以上親密ではありえない場所であり、その場所からこそ、言葉が生まれて来るからです。
 ところが、コルバンによると、1950年代末に、沈黙との別れが人類に起こります。人々はもはやそこから言葉が生まれて来る沈黙に注意を払わなくなります。というよりも、沈黙が「聞こえなくなる」のです。それは、自分の声を聴くことができなくなる、ということでもあるのです。つまり、そこで起こっているのは、個人の構造そのものの変化にほかなりません。
 コルバンは、本書において、沈黙の価値を再発見しようと、沈黙が掛け替えのない場所、そこから言葉が生まれて来る場所であった過去へと遡ります。この遡行の旅は、自己へと回帰する省察への招きにほかなりません。