内的自己対話-川の畔のささめごと

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哲学することなしに哲学史を語ることはできない ― アラン・ド・リベラ『中世哲学はどこに行くのか?』

2017-02-06 16:30:08 | 読游摘録

 2013年3月コレージュ・ド・フランスの「中世哲学講座」の教授に選任されたアラン・ド・リベラの開講講義(leçon inaugurale) « Où va la philosophie médiévale ? » は、翌年2014年2月13日に行われた。同講義は、コレージュ・ド・フランスの公式サイトでヴィデオを観ることができるし、ダウンロードもできる(こちらがそのURL)。その全文はこちらのサイトで読むことができるし、同じくダウンロードもできる。ヴィデオも原稿全文もすべて無料である。これはコレージュ・ド・フランス創立時からの講義の基本方針「万人に無料で開放」とも合致する。同講義は、文庫本サイズの小冊子として講義と同じタイトルで Fayard 社から出版されてもいる(こちらが出版社の紹介頁)。印刷された本文は、講義の際に実際読み上げられた、あるいはその場で多少の変更が加えられたり言い直された原稿とは細部において若干異なるが、内容は同一である。
 因みに、アラン・ド・リベラの講義・演習に限らず、コレージュ・ド・フランスの2005年からの講義・演習・講演などの多く(現時点で7674点)が同じサイトで視聴できるようになっている。これは膨大な知的財産であり、それらが世界中どこからでもアクセスできるようになっているのは慶賀の至りである。サイトの言語は、仏語、英語、そして第三の言語は中国語である(その理由は詳らかにしないが、潜在的な訪問者の数の多さを世界人口に占める割合から判断してのことなのか、中国政府から多額の寄付があったからなのか...)。
 開講講義の際には引用されることのなかったオスカー・ワイルドの Intentions からの一文 « The only duty we owe to history is to rewrite it » が原稿の冒頭に置かれている。これはアラン・ド・リベラの哲学史家としての姿勢をよく示していると思う。歴史から学ぶということは、歴史を新たに書き直すということであり、哲学史の場合、それは、過去の時代に生きられた哲学に学びつつ、現在において哲学をやり直すことにほかならない。
 開講講義の末尾近くの一節を多少端折って意訳すれば、以下のようになろうか。

 中世哲学はどこに行くのか。それは哲学がある場所へと行く。それは哲学が行く場所にある。それが中世的なのは、中世という時代を経たからである。その時代、つまりその時代を生きた人たちにとっての「現代」には、「中世」哲学は、端的に哲学であった。今日、その歴史を語り(relater)たい者、つまりその歴史を関係づけ(mettre en relation)たい者が行くべき場所にその哲学は行く。中世の初期から近世・近代を経て現代へ、そしてその彼方へ、様々な哲学の時と場所とを経ながら、哲学は長い旅をする。

 一言で言えば、哲学史は哲学の長い旅であり、哲学史を学ぶということは、哲学の旅に自ら出ることである。