内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

別れと悲しみの年輪 ― 快方に向う体と対話しながら

2017-02-13 17:58:58 | 哲学

 今朝は目覚めもかなりすっきりとしていて、熱はもうなく、金曜日にはひどく苦しめられた症状のほとんどが解消しました。ところが、それと引き換えのように、昨日はすっかり治まっていた胸部の圧迫感が再度感じられるようになり、数時間に一度ですがまた少し咳き込むようになりました。
 昨晩の時点でまだ翌朝の完全な回復は望めないと予想されたので、今日の午前中に予定されていた会議への出席と学生との面談の約束はあらかじめキャンセルしておき、今日もう一日、自宅で静養することにしました。これで丸四日間自宅から一歩も出ていません。記憶を辿っても、過去にそんなことがいつあっただろうかと思い出せないくらい、私には稀なことです。でも、よほどの迷惑が他の方々にかからないかぎり、無理をする理由にはならないと思い、「我が身を大切にすること」を優先しました。
 明日の授業はさすがに休講にはできませんから、今日は昨日から持ち越した準備を続けました。ただ、それも休み休みで、時々書棚からあれこれの本を引っ張り出して、パラパラ頁をめくって気晴らしの走り読みをしながらのことでした。
 そんな走り読みのために取り出した本の一冊が、現代文の高校教科書『探求 現代文』(桐原書店、平成22年度版)です。なんで高校の現代文の教科書なんか持っているのかというと、この冬に帰国したときの元実家での蔵書整理中に、娘が置いていった教科書類の処分をどうするか少し迷ったのですが、国語の教科書類(現代文と古典あわせて七冊)だけは、なんとなく捨てるにしのびなく、こちらでも役に立つだろうからと、他の本と一緒にこちらに送ったからです。
 これらの教科書は、娘が高校一・二年のときに使っていたもので、いたるところに授業中にしたらしい鉛筆での書き込みやらラインマーカーでのサイドラインやらがあってそれが微笑ましくもあります(「へぇ、けっこう真面目に勉強してたんだぁ」)。
 上掲の現代文の教科書の巻頭に置かれているのが吉本隆明の随想「成長するということ」なのです。目次を見て、吉本隆明が国語の教科書の劈頭というのにちょっと驚かされて、読んでみたんですね。本文は四頁ちょっと、『僕ならこう考える』(一九九七年)からの採録で、教科書採録用に多少の改変があるかも知れませんが、内容は吉本さんがかねてから他所でも繰り返していたことと重なりますから、そういう意味では「発見」はなかったのですが、読みながら、おそらく講演か談話が基になっているその口語体が伝える吉本さんの語り口から彼の肉声が聞こえて来るようで、心に触れてくるところがありました(全体として内容にすっかり賛成というわけではないのです。特にキルケゴールを引き合いに出しているところは、あまりに強引な誤読なのでちょっと辟易しました)。
 数分で読める短い文章ですが、さすがにここに全文書き写すには長すぎますので、前半から、冒頭の一文と他の二箇所を引いておきます。

自分の精神がどうやって成長してきたか考えてみると、どうも別れから成長してきたような気がします。

死別もあり、生別もあり、失恋もあり、いさかいもありですが、そんな別れのときの感じ方で、自分の精神上の、年輪を増やしていった、というのが一番印象に残ってる。なぜ、それでも出会いを求めるのかはわからないんだけど、別離とか死から、失ったものと得たものと、どっちが多いんだといったら、失ったものも多いけども、得たもののほうがもっと多い。その余りがずっと残って、悲しみの感じとして、年輪になる気がぼくはしますね。

人間というのは、喜びよりも、悲しみとか寂しさ、哀れみとか、そいうことで精神の年齢が増えていくことが多いんじゃないか。一般論としてはそういうふうにいえるから、決して悪いだけとは思えない。確かに失うことであるけど、失ってもまだ余っていることがある。それを集めると悪くないんだなと思います。

 明日(というか、日本時間ではすでに今日ですね)は娘の二十三回目の誕生日(ヴァレンタインデーなので忘れようがないんですよ)なので、例年のごとく一言メッセージを送りますが、その中でちょっとこの教科書のことにも触れるつもりです。