佐竹昭広『萬葉集再読』(平凡社、二〇〇三年刊)所収の論文「「無常」について」(初稿掲載は『岩波講座 日本文学と仏教』第四巻「無常」一九九四年十一月)の後注(15)に、「人麻呂の仏教思想については末木文美士氏の指摘が的確である(「『萬葉集』における無常観の形成」日本仏教思想史論考所収、大蔵出版、一九九三年)」とあったので、さっそくその『日本仏教思想史論考』を日本の家族に頼んで送ってもらった。
末木の当該論文は後注含めて十九頁と短いし、論文末尾の追記には、「文学史に不案内であるから、不適切なところも多いかと思う」と本人が認めているように、引用されている万葉歌の釈義には、確かに、疑義を挟みたくなるところ、もの足りないと感じさせるところもあるが、きわめて示唆的な指摘もいくつかあり、それらを手がかりに私なりに『万葉集』における無常観の形成という問題をさらに考究していきたい。
今日のところは、この末木論文の「枕」ともいうべき第一節に引かれている原始経典や中国古詩から特に心に残った詩句を摘録するにとどめる。
万物は泡の如く 意は野馬の如く
世に居ること幻の如し 奈何ぞ此を楽しまん (法句経・世俗品)
人生のはかなさ・移ろいやすさを嘆くだけでは仏教にならない。
色は無常なり。無常は即ち苦なり。苦は即ち非我なり。非我は亦我所にあらず。是の如く観ずるを真実正観と名づく。是の如く受・想・行・識も無常なり。(雑阿含経・巻一)
その仏教が中国に渡ったちょうどその頃、彼の地においても同じように人生のはかなさが自覚されるようになっていた。
去る者は日に以って疎く
生くる者のみ日に以って親し
郭門を出でて直に視るに
但だ丘と墳とを見る
古き墓は犂かれて田と為り
松と柏とは摧かれて薪と為る
白楊には悲しき風多く
蕭々として人を愁殺す
故の里閭に還らんことを思うも
帰らんと欲して道は因るべなし (古詩十九首・第十四首 吉川幸次郎訳)
この古詩を読んで、愁殺された。