内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

内在的自己批判契機によって機能していた近代社会と「同時多発」による自壊か再組織化かの岐路に立つ現代社会

2019-03-12 17:46:42 | 講義の余白から

 今日の「近代日本の歴史と社会」の授業では、ヴァカンス前に、明治期の通覧を一応終え、丸山眞男の「明治国家の思想」の仏訳を読ませた後だったので、その中に引用されていた漱石の『それから』の一節を出発点として、近代・近代性・近代化という諸概念をどう定義するかという問題を改めて提起し、この問題へのアプローチをより広い視野で行うための手がかりを探った。
 まず、『それから』発表から二年後の1911年に漱石が和歌山で行った講演「現代日本の開化」の原文の抜粋をスクリーンに投影しながら、私が仏訳を音読し、さらにそれにコメントを加えるという形で、漱石がどのように日本の「開化」を捉えていたかを示し、ついで1914年に学習院で行った講演「私の個人主義」も同じような仕方で読み、漱石が日本の近代化に対して己自身の問題としてどのように格闘したかを説明した。
 その上で、そもそも近代とは何かという問題をヨーロッパのコンテキストに立ち戻って考えるために、Jacques Le Rider, Modernité viennoise et crises de l’identité, PUF, 2000 の一段落を読ませた。そこには、19世紀ウィーンの近代化の特徴とそこから発生する諸問題が述べられている。その記述は、近代社会に発生する諸問題に関しては、日本の近代化にも大方そのまま当てはまる。では、どこで決定的に異なるのか。これが私が教室で学生たちに投げかけた問いであった。
 その答えは、一言でいえば、前者が近代化そのものに対する自己批判契機を内在させており、その批判契機はさまざまな分野において表現されているのに対して、後者はそれを欠いている、あるいは非常に薄弱であることである。
 近代の内在的批判とは、近代を否定することでも、復古主義でも伝統主義でも普遍主義でもない。変化しつつある社会を受け入れつつ、それをその内側から批判することによって絶えず活性化することである。ヨーロッパにおけるポストモダンは、この内在的批判契機の一発現形態だったのであって、けっして近代の否定でも、ましてやその「超克」(の試み)などではなかった。漱石がいう意味での「内発的」開化も、この内在的自己批判契機なしには、そもそもその可能性の条件を欠いていることになる。
 ここから後は授業では言わなかったこと。
 この意味での内在性と外在性と区別が有効に機能するのが近代であるとすれば、グローバリゼーションがとめどなく進行する現代、とりわけネオ・リベラリズムが世界を席捲している現代では、その区別がしだいに無効化し、それに替わって時代の指標となっているのが「同時多発」現象である。予測不可能な事態、そこまでは言わないにしても、想定外の事態が世界各地で次々に発生し、内と外の区別が機能しなくなれば、内在的自己批判契機も消失する。ヨーロッパ各国で排他主義的傾向が顕著になりつつあるその理由の一つはここにあると私は見ている。だが、この危機的状況が世界の再組織化を促す契機になるかもしれない。自壊か再組織化か、現代社会はその岐路に立っているように私には思える。