今週水曜日の古典文学の授業では、「花のゆくへ ― 無常観の系譜学序説」と題して、万葉から古今への無常観(あるいは無常感)の移り行きを佐竹昭広の論文「自然観の祖型」(『萬葉集再読』所収。初稿掲載は『岩波講座 転換期における人間〈2〉自然とは』一九八九年)に依拠しつつ辿る。
この論文は、初稿掲載書の性格からもわかるように、文学の専門家たちを対象としたものではない。それゆえ、素人にもわかりやすいさらっとした記述が多いのだが、それがとても美しく、また示唆に富んでもいる。
『古事記』の木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ)をめぐる神話を引用した後、論文はこう続く(『萬葉集再読』五四-五六頁)。
短命の定めを免れないコノハナ。人寿もまたかくの如くに「散り過ぎ」て、はかない。その花のようにはかないものを、萬葉人は「花物」と言った。[中略]
人の命も、また「花物」。
高山と 海とこそば 山ながら かくしも現しく 海ながら しか直ならめ 人は花物そ うつせみ世人 (巻十三・三三三二)
山と海の恒久的現存に対して、あまりにもはなかい人の世の定めを、「人は花物そ、うつせみの世人」と、散り過ぎる春花のイマージュに訴えた「花物」の一語が美しい。[中略]
萬葉語「花物」は、古今集では「あだもの」という語にとって代わられる。
命やは何ぞは露のあだものを逢ふにしかへば惜しからなくに (巻十二・恋二)
[中略]
そもそも「あだ」は萬葉集に所見の無かった語である。「あだもの」という新語の登場は、同時に自然と人生を「あだなるもの」と観照するこころの新登場を意味する。[中略]
鴨長明は「スベテ世中ノアリニクゝ、ワガ身ト栖トノハカナクアダナルサマ、又カクノ如シ」と方丈記に書いた。[中略]
萬葉の「花物」が古今の「あだもの」に交替した結果は、こうして自然と人生を「あだなるもの」と見る無常観の確立にまで至り着くのである。
授業ではこの一節を手がかりに、上掲引用では略した歌の実例を読みながら、「花物」から「あだもの」への移り行きを跡づける。
そして、平安期における「はかなし」の登場、萬葉集における「過ぐ」から「うつろふ」への移行を家持歌を転回点として眺望する。