内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「世の人我」における抒情の共同性

2019-03-21 23:59:59 | 詩歌逍遥

 『万葉集』の注釈書類を覗くと、「世間」という語は、山上憶良の「哀世間難住歌」(巻五・八〇四)のように題詞に使われているときは「せけん」と今日と同じ訓みが与えられ、人麻呂の泣血哀働歌の一首(二一〇)でのように歌の原文中にこの漢字二字「世間」が「世間乎 背之不得者」のように用いられているときは、「世の中を 背きしえねば」というように「よのなか」という訓が与えられている。
 万葉集では、そのような歌語としての「世間」の場合も、仏教語「世間空」の翻読語とみなされ、「この世は無常だという定め」を意味する。人麻呂のこの歌はその最初の用例。「世の中」が男女の仲を意味するようになるのは平安期に入ってからである。
 その世間に住む「世の人」もまた無常。しかし、下掲の人麻呂歌集歌は、ただ単に世の人である自分一人の命の儚さを詠んだとは言えない余情の響きがある。

巻向の山辺とよみて行く水の水沫のごとし世の人我は (巻七・一二六九)

 この歌の結句、原文では「世人吾等者」となっており、伊藤博は『釋注』で、その点に注目し、この歌は前歌一二六八とともに集宴において献じられた歌で、「集う人びとの心情に同化し、それを代弁する気持ちで詠をなしたことが、複数を示すこの用字を導いたのではないか」と推量し、このようにして宴席に連なる人びとに共有されたであろう感動を「代表的感動」と呼んでいる。
 自分の一人の命の儚さを詠嘆するのではなく、「世の人」である我らはみな同じく川面の水泡のようなものなだのだという抒情が眼前の風景と融合し、その景情融合によって抒情の共同性が成り立っている。この抒情の共同性もいわゆる仏教的な無常観には見出し難い。











書物に囲まれて生きながら、読書をしていないという哀れ

2019-03-20 19:29:53 | 雑感

 自分でも呆れるほどの遅読である。一冊の本をまるごときちんと真剣に読でいたら、月に一冊くらいしか読めないのではないだろうか。純粋に楽しみのためなら、それでもよい。むしろ本代がかかららなくて安上がりでいいくらいだ。
 しかし、仕事のため、というか、授業や研究のためとなると、それでは話にならない。実際、そのために読んでいるのは、参照すべき著作それぞれのごく一部に過ぎない。数えたわけではないが、どんなに忙しくても、一日平均だいたい十冊の本は覗いている。電子書籍を利用するようになってからは、その数値が倍増していると思う。勿論、これを読書とは言わない。
 例えば、昨日の記事では、末木文美士の『日本仏教思想史論考』一冊にしか言及していないが、授業の準備としては、その一日に、角川ソフィア文庫版と岩波文庫版の『万葉集』(それぞれ四冊、五冊)、『原文 万葉集』(上下巻、岩波文庫)、川口常孝『萬葉歌人の美学と構造』、大西克礼『自然感情の美学』、佐竹昭広『萬葉集再読』などが机上に積まれ、さらに仏訳『万葉集』(五冊)がその脇で紐解かれるというありさま。それに電子書籍版『萬葉集釋注』(全十冊)が加わる(場所を取らないのはありがたいが、あっちこっち覗き、同時に開いたままにしておけないのは、電子書籍の弱点)。
 文献に基づいた研究教育に携わる者たちにとっては日常のことだが、こんなことにばかり時間を取られていると、書物に囲まれた生活をしていながら、実のところ、本は読んでいない、ということになりかねない。少なくとも、私の場合はそうだ。ときどき、そんな毎日に疲れ、溜息が出る。
 引き合いに出すのは僭越至極、恥知らずもいいところだが、上田観照が『上田閑照集 第七巻』の「後語 解釈の葛藤の中で」(二〇〇一年九月九日記)の末尾に、「現在の私の夢は、実現するとしても四、五年先のことになるであろうが、エックハルトと『臨済録』と道元の『正法眼蔵』とを、何かを書くという意図なしに、並行してゆっくりと読んでみたいということである」(369頁)と記しているのをかつて読んだとき、いたく共感したものである。
 上田閑照が挙げたエックハルトは私も同じように読んでみたい。もちろん仏訳によってという大きなハンデイはあるけれど。『臨済録』『正法眼蔵』はどうだろうか。私はそのかわりに何を選ぶだろうか。そんなことをいっとき夢想してみるのは、ちょっと楽しい。











仏教の無常観では捉えきれないもの ― 人麻呂の近江荒都歌

2019-03-19 23:59:59 | 講義の余白から

 末木文美士の「『万葉集』における無常観の形成」(『日本仏教思想史論考』所収)は、人麻呂の近江荒都歌の一連(巻一・二九~三一)には仏教の無常観では捉えきれないものがあるという。

ここでも過去は既に甦りえないものとして現在における欠除態として嘆かれている。しかも、これまでの歌と異なるのは、個人の生のはかなさではなく、より大きな歴史の過ぎ行きが歌い籠められていることである。この点、既に仏教の無常観では捉えきれないものと言わなければならない。

 そのような歴史観が形成されたのが持統朝においてであったことに末木は注目する。

しかも、それが持統朝に至って、壬申の乱以前の天智朝がとりかえしのつかない昔として慕われていることは注目される。[…]この間の十数年が如何に精神史上大きな転換期であったかをうかがわしめる一つの傍証とも言えよう。事実、この期になって俄に過去を追憶する作品が増してくる。(一八一頁)

 それらの歌の中には「いにしへ」という語が頻用されている。しかも、それ以前の歌、例えば、中大兄皇子の巻一・一三の大和三山歌では、「いにしへ」は「神代」同義であったのに対して、人麻呂歌では、「いにしへ」は歴史的次元に移されてくる。そこに末木は、「壬申の乱以後の思想史的展開」を見ている。
 そして、人麻呂の名歌「近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ」(巻三・二六六)について、次のように仏教の無常観との異なりを指摘する。

近江荒都歌と同じ情況下に作られたものと考えられるが、文学的により高い完成度に達している。圧縮され、うねるような声調の中に歌い籠められた情動は、一首の中に文学的な充足を得ている。ここから、例えば宗教的な悟りを求める行動は出てこない。歴史の過ぎ行きを嘆くこと自体を、あくまで文学的次元において高め、純化しているのである。この点もまた、仏教の無常観と異なるところである。(一八二頁)

 とりかえしのつかないものへの嗟嘆をそれ自体として純化することによって、文学的次元における充足を得、その文学的自己充足性において仏教的無常観から自己差異化することで拓かれた独自の無常の文学的世界が日本固有の無常観の淵源と言えるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


花のゆくへ ― 無常観の系譜学序説(2)、「過ぐ」から「うつろふ」へ

2019-03-18 18:25:17 | 講義の余白から

 昨日の記事の続きで、佐竹昭広論文「自然観の祖型」からの摘録。
 万葉集の挽歌には、比喩的に人の死を指して「散り過ぐ」と言った例がある(巻十三・三三三三)。単に「過ぐ」の一語だけでも「死ぬ」の婉曲表現であった(巻二・四七、巻二・一九五・一云、巻二・二〇七、巻三・四二七、巻三・四六三、巻九・一七九六)。
 「古代日本語においては、自然界の推移も人の死も、共に「過ぐ」という一語で把握していた。[中略]この「過ぐ」の両義性が、必然的に日本人の自然観を仏教的無常観と二重写しにして行く」(四七頁)。
 すでに今年の2月23日の記事で言及したことだが、この佐竹論文には、万葉集の自然観に無常観への傾斜が認められることを指摘した先学として大西克礼の名が挙げられ、『万葉集の自然感情』(昭和十八年刊)からの長い引用がある。それについては拙ブログの当該記事並びにその翌日の記事を参照されたし。
 万葉第四期つまり最後期を代表する大伴家持が第三期を代表する赤人の時代と古今の時代との間にあってどのような位置を占めるかについて、小西甚一は『日本文学史』のなかで次のように述べている。

八世紀の中ごろよりあと、いわゆる奈良時代後期を代表するのは、大伴家持である。家持のころになると、長歌には見るべきものが無くなり、抒情詩としての短歌が完成の段階に達する。それは、純然たる「個人」が和歌的世界に確立されたことだと言ってよい。和歌における「古代」が終末に近づいたのだと言い換えてもよいであろう。それをいちばん明瞭に示すのが、かれの表現における景情融合である。赤人における景情融合は、叙景の底に心情が沈みきった表現であり、その融合は本来的のものであった。すなわち、意識的に景と情を融合させようとする努力が、すこしも無いのである。家持においても、努力というほどのものは、存在しない。が、表現しようとする心情にいちばん適わしい景象は、あきらかに選択されている。 その、いちばん適わしい状態において景と情が融合しているということは、精神と自然とが、ある距離をもつに到ったことであり、そこに、わたくしどもは、中世的な影を感じないわけにはゆかない。しかしながら、家持において、精神と自然とは、あくまで「融合」の状態に在るのであり、古今集時代のような分裂は見られない。(『日本文学史』講談社学術文庫、一九九三年、四二頁。初版一九五三年)

 家持において、小西が言うところの精神と自然との間にある両者の融合をなお妨げない程度の距離と「うつろふ」という動詞の愛用とは無関係ではないだろう。
 家持の次の時代からは「相対的に「過ぐ」よりも「うつろふ」の語が主流を成す」ようになる(佐竹昭広『萬葉集再読』五六頁)。家持においては個としての自然感情の表現として用いられた「うつろふ」が、古今集以後の時代では歌人たちによって一種の共通感情として共有されるようになると同時に、まさにそのことによって精神と自然との分裂は決定的となり、詩的世界の内向化が進む。
 平安期に入り、「はかなし」という形容詞が登場するのも、「うつろひ」にはまだそれなりの順序があったのに対して、例えば、和泉式部日記の冒頭の「夢よりもはかなき世の中を嘆きわびつつ」に見られるように、男女の仲にほかならない世の中の「はかなさ」においては、もやは「うつろふ」順序さえ確かではない。いわゆる仏教的無常観とは区別されるべきこの情感的無常感の深まりが、日本文学に浸透した仏教的無常観に独特の色合いを与えていく。












花のゆくへ ― 無常観の系譜学序説(1)、「花物」から「あだもの」へ

2019-03-17 13:11:55 | 講義の余白から

 今週水曜日の古典文学の授業では、「花のゆくへ ― 無常観の系譜学序説」と題して、万葉から古今への無常観(あるいは無常感)の移り行きを佐竹昭広の論文「自然観の祖型」(『萬葉集再読』所収。初稿掲載は『岩波講座 転換期における人間〈2〉自然とは』一九八九年)に依拠しつつ辿る。
 この論文は、初稿掲載書の性格からもわかるように、文学の専門家たちを対象としたものではない。それゆえ、素人にもわかりやすいさらっとした記述が多いのだが、それがとても美しく、また示唆に富んでもいる。
 『古事記』の木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ)をめぐる神話を引用した後、論文はこう続く(『萬葉集再読』五四-五六頁)。

 短命の定めを免れないコノハナ。人寿もまたかくの如くに「散り過ぎ」て、はかない。その花のようにはかないものを、萬葉人は「花物」と言った。[中略]

 人の命も、また「花物」。

高山と 海とこそば 山ながら かくしも現しく 海ながら しか直ならめ 人は花物そ うつせみ世人 (巻十三・三三三二)

 山と海の恒久的現存に対して、あまりにもはなかい人の世の定めを、「人は花物そ、うつせみの世人」と、散り過ぎる春花のイマージュに訴えた「花物」の一語が美しい。[中略]

 萬葉語「花物」は、古今集では「あだもの」という語にとって代わられる。

命やは何ぞは露のあだものを逢ふにしかへば惜しからなくに (巻十二・恋二)

 [中略]
 そもそも「あだ」は萬葉集に所見の無かった語である。「あだもの」という新語の登場は、同時に自然と人生を「あだなるもの」と観照するこころの新登場を意味する。[中略]
 鴨長明は「スベテ世中ノアリニクゝ、ワガ身ト栖トノハカナクアダナルサマ、又カクノ如シ」と方丈記に書いた。[中略]
 萬葉の「花物」が古今の「あだもの」に交替した結果は、こうして自然と人生を「あだなるもの」と見る無常観の確立にまで至り着くのである。

 授業ではこの一節を手がかりに、上掲引用では略した歌の実例を読みながら、「花物」から「あだもの」への移り行きを跡づける。
 そして、平安期における「はかなし」の登場、萬葉集における「過ぐ」から「うつろふ」への移行を家持歌を転回点として眺望する。












パリでの佳き一日 ― TGVの車中から

2019-03-16 21:25:08 | 雑感

 今日はパリのイナルコでの日本哲学研究会に日帰りで参加した。この記事を書いているのは、その帰りのTGVの中。
 午前8時19分発のTGVに乗車予定だったが、ストラスブール中央駅に向かうトラムの中でSNCFのサイトをスマホで確認したところ、 « retard indéterminé » との表示。嫌な予感。駅に着いて電光掲示板を見たら、「一時間遅延」との表示。やれやれ。ホールで一時間ぼーっと立って待っているのもバカバカしい。待合室で今日の発表に対する質問の準備をすることにしよう。ところが、十分ほどして、待合室の電光掲示板を見上げると、 « supprimé » との表示。つまり運休である。「マジかよ」と舌打ちし、窓口に向かう。職員が待ってましたとばかりに、振替のTGVのチケットをにこやかに渡してくれる。でも、一言の詫びもなし(だって、私のせいじゃないもんねって感じ)。10時43分発。まだ2時間以上あるじゃん。仕方ない。駅をいったん出て、近くのカフェを探す。普段カフェなどほとんど行かないし、駅付近には TGV や TER に乗るため以外にはまず来ることがないから、どこがいいカフェかもわからない。まるで旅行者みたいに駅周辺を少し歩き回って、ようやく一軒見つける。
 そこで約2時間、今日の研究会の準備。サバティカルイヤーでストラスブールに四年前に一年間滞在なさったとき以来の付き合いの北海道大学のM先生の発表で、しかも私が司会役を務めることになっていたので、研究会の場で想定されうるさまざまな状況に柔軟に対応できるように、三つのタイプに分けた質問を用意する。
 乗車したTGVが出発したのは、さらに15分遅れのほぼ11時。まあ、研究会は14時半からだから、会場のイナルコには余裕を持って着ける。イナルコの近くのカフェ・レストランで昼食を済ませてから向かう。予約されていた教室に着いたら、なんと子供向けのアトリエ開催中。ダブルブッキングである。急遽別の空き教室を同階に見つけてそこに移動。プロジェクターの調整などため、少し開始予定時間から遅れてしまったが、今日は発表者が一人なので、時間的には余裕があり、慌てはしなかった。
 M先生の発表は、林達夫における反語的精神について。林達夫は、日本でも最近はあまり読まれていないようだし、ましてやフランスでは、その名さえほとんど知られていない。ほぼ間違いなく、今回のM先生の発表がフランスでの最初のまとまった紹介であろう。それに、反語(イロニー)というテーマは、いろいろなアプローチでさまざまに展開可能な、フランス語で言うところの « fédérateur » なテーマで、今後も何らかの仕方で継続的に取り上げるに値することが先生の発表を聴きながらよくわかった。
 発表後の質疑応答は、出席者たちからのそれぞれに重要な論点を突く質問とそれに対するM先生の的確かつ誠実な応答だけで十分に活発で、司会者としては楽なものであった。しかし、せっかくの機会だからと、会場からの質問が一通りが済んだ後、用意してきた一連の質問を私もさせてもらった。それらすべてにM先生は丁寧に応えてくださり、質問した側としても質問の甲斐があった。
 研究会の後は、例のごとく、近くのカフェで残った出席者たちが発表者を囲んで自由に歓談。これはこれでいつも楽しい一時だ。
 イナルコ付近のホテルに宿を取られたM先生とはメトロの駅の入り口で別れの挨拶を交わし、帰路についた。
 佳き一日であった。














古書探しの愉しみと悲しみ

2019-03-15 23:59:59 | 読游摘録

 ある本を読んでいて、その中に引用されている文章が気になり、その前後も読みたくなり、巻末の文献表の当該書の書誌情報から発注するということがしばしばある。その本が簡単に入手できる場合はいいのだが、学術専門書で非常に高価だったり、絶版で古書に法外な値がつけられていると諦めざるをえない。仏語文献であれば、図書館で閲覧するという手段もあるが、日本語文献だとそれも直ちにはできない。それで歯がゆい思いをすることもときにある。
 仏語文献に話を限るとして、長いこと絶版のままで、古書市場にもほとんど出回おらず、でも入手した本がある。例えば、ミッシェル・フーコーが訳したヴァイツゼッカーの『ゲシュタルトクライス』(Le cycle de la structure, 1958年刊)は、長いこと探しているのだが、ずっと入手困難な本の一つである。ときどき出品されるが数万円の値が付いていて、さすがに買う気になれない。最近、Internet Archive でPDF版を無料で入手できたので、参照は簡単にできるようになったのはありがたい。
 それほど入手困難ではないが、しばらく探していて、つい先日ネット上で見つけて即購入したのが、Louis Lavelle. Actes du colloque international d’Agen 27-28-29 septembre 1985, avec un extrait du texte inédit La réalité de l’esprit, Société académique d’Agen, 1988, 606 p. である。一部折れがある程度の非常に状態のいい古書であった。しかも、驚いたことに、本体価格わずか 16,8€ で、送料込でも 24,69€ という安値であった。ついでだが、こういう「発見」は、Amazon よりも Rakuten での方が圧倒的に確率が高い。
 Louis Lavelle にしても、先日何度か話題にした Maurice Pradines にしても、今日忘れられかけている哲学者である。ラヴェルのほうは、復刊に熱意を持っている研究者グループのおかげで、簡単に入手できるようになった著作もあるが、主著はほとんど古書でしか入手できない。上掲の論文集の安さは、むしろその哲学に対する一般の関心の低さによって説明されるので、嬉しいような悲しいような気分である。
 この論文集は、1985年シンポジウムの発表原稿が基になっているが、この種の論文集は玉石混淆であることが多い。しかし、それらの論文は、発表者の単著に再録されないと、入手が困難なことが多く、その中には非常に重要な論文も含まれている。だから、今回の入手は、私にとっては「いい買い物」であった。













研究会に参加しての思わぬ収穫 ― TGVの車中から

2019-03-14 19:25:07 | 雑感

 この記事はリルからストラスブールへと戻るTGVの車中で書いている。
 今日の研究会は、私以外の発表はそれぞれに面白く、学ぶことも多かった。自分の発表はといえば、直前まで随分削ったにもかかわらず、結局、最後の三頁近くを一言でまとめなければならないことになり、尻切れトンボに終わってしまった。午前中の発表者たちがミッシェル・アンリに何度も言及していたことから、ミッシェル・アンリについては本当に問題の核心だけ述べればよいことがわかったが、その場で構成を大幅に変える芸当もできず、大いに不満の残る結果になってしまった。三つの質問を受け、それには一応答えたが、むしろ今後見直すべき点を教えられたという点では収穫があったと言えようか。
 研究会が午後五時に終わり、慌ただしく参加者と挨拶を交わし、リル大学、パリ第四大学、ローマ大学の教授たち三人と一緒に大学からメトロで駅に向かった。
 研究会の間にわかって驚いたことに、このリル大学の教授は、二〇一四年までストラスブール大学哲学部に勤務され、今もずっとストラスブールに住んでいらっしゃり、お住まいが私の住まいとトラムで一駅という近さなのである(二年前に現在のアパートに引っ越したとのこと)。教授は、ストラスブールに博士課程の学生時代から二十五年間住んでいらっしゃり、奥様もストラスブールの ENA で働いておられるとのこと。私と入れ違いに、ポストはストラスブールからリルに移ったが、愛着のあるストラスブールに早く戻りたいと願っていて、うまくいけばこの九月にその願いが実現するという。もしそうなったら、一緒に研究会を組織しようと誘ってくださった。この教授との出会いが今回の研究会に参加しての最大の収穫ということになるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「近代」概念再考のための手がかり ― TGVの車中から

2019-03-13 16:16:08 | 講義の余白から

 この記事は、ストラスブールからリルに向かうTGVの中で書いている。明日の研究集会は9時から始まり、当日出発では開会に間に合わないので、前日に現地入りすることにしたからである。交通費も宿泊代も主催者持ちである。
 研究集会のことは明日以降の記事に譲るとして、今日の記事では、簡単に昨日の記事の補足をしておきたい。
昨日の記事で言及した Jacques Le Rider の本からの引用段落の直前の段落で、 « moderne » という概念自体は、ラテン語 modernus として、西ローマ帝国消滅後、五世紀に登場するということが Jacques Le Goff の Histoire et mémoire に依拠して指摘されている。つまり、ある時代が終わり、新しい時代が始まったという歴史認識とともにこの概念は使われるようになったということである。
 そのジャック・ル・ゴフの本には、一般に西洋史家たちは、ancien (antiquité)/médiéval/moderne という大区分を前提として moderne という語を使い、特に古代との対比において使うという指摘もある。だから、この区分をそのまま日本史に当てはめることには当然無理がある。日本史における「近世」を prémoderne と訳さざるを得ない理由もそこにある。
 学生たちには、教科書的な時代区分を安易に前提にせず、それに囚われずに歴史を見るように注意を促した。
 授業での次の話題は、moderne という語が明らかに否定的な意味で使われている例である。これは、ボワローの言葉として弟子が書き留めていることだが、 « Les mystiques sont des modernes. » とボワローは神秘主義者たちを批判したという。この場合、moderne は、伝統と古典を尊重せず、新奇で趣味の悪く、儚く消えて行くもの、というような意味で使われている。この点については、2018年7月20日の記事を参照されたし。
 そして、最後に話題にしたのが、例のごとく、Rémi Brague の Au moyen du Moyen Âge の中の inclusion/digestion という区別である。この区別については、2013年8月7日とその翌日の記事で詳しく説明してあるので、そちらを参照されたし。学生たちには、ついでに同じ著者の Modérément moderne. Les Temps modernes ou l’invention d’une supercherie, Flammarion coll. « Champs essais », 2016 (1re éd. 2014) も紹介しておいた。
 かくして、学生たちにさまざまな思考の材料と手がかりを与え、あとは自分たちでそれぞれ関心のある分野で日本の近代史を見直してみなさいと授業を締め括った。












内在的自己批判契機によって機能していた近代社会と「同時多発」による自壊か再組織化かの岐路に立つ現代社会

2019-03-12 17:46:42 | 講義の余白から

 今日の「近代日本の歴史と社会」の授業では、ヴァカンス前に、明治期の通覧を一応終え、丸山眞男の「明治国家の思想」の仏訳を読ませた後だったので、その中に引用されていた漱石の『それから』の一節を出発点として、近代・近代性・近代化という諸概念をどう定義するかという問題を改めて提起し、この問題へのアプローチをより広い視野で行うための手がかりを探った。
 まず、『それから』発表から二年後の1911年に漱石が和歌山で行った講演「現代日本の開化」の原文の抜粋をスクリーンに投影しながら、私が仏訳を音読し、さらにそれにコメントを加えるという形で、漱石がどのように日本の「開化」を捉えていたかを示し、ついで1914年に学習院で行った講演「私の個人主義」も同じような仕方で読み、漱石が日本の近代化に対して己自身の問題としてどのように格闘したかを説明した。
 その上で、そもそも近代とは何かという問題をヨーロッパのコンテキストに立ち戻って考えるために、Jacques Le Rider, Modernité viennoise et crises de l’identité, PUF, 2000 の一段落を読ませた。そこには、19世紀ウィーンの近代化の特徴とそこから発生する諸問題が述べられている。その記述は、近代社会に発生する諸問題に関しては、日本の近代化にも大方そのまま当てはまる。では、どこで決定的に異なるのか。これが私が教室で学生たちに投げかけた問いであった。
 その答えは、一言でいえば、前者が近代化そのものに対する自己批判契機を内在させており、その批判契機はさまざまな分野において表現されているのに対して、後者はそれを欠いている、あるいは非常に薄弱であることである。
 近代の内在的批判とは、近代を否定することでも、復古主義でも伝統主義でも普遍主義でもない。変化しつつある社会を受け入れつつ、それをその内側から批判することによって絶えず活性化することである。ヨーロッパにおけるポストモダンは、この内在的批判契機の一発現形態だったのであって、けっして近代の否定でも、ましてやその「超克」(の試み)などではなかった。漱石がいう意味での「内発的」開化も、この内在的自己批判契機なしには、そもそもその可能性の条件を欠いていることになる。
 ここから後は授業では言わなかったこと。
 この意味での内在性と外在性と区別が有効に機能するのが近代であるとすれば、グローバリゼーションがとめどなく進行する現代、とりわけネオ・リベラリズムが世界を席捲している現代では、その区別がしだいに無効化し、それに替わって時代の指標となっているのが「同時多発」現象である。予測不可能な事態、そこまでは言わないにしても、想定外の事態が世界各地で次々に発生し、内と外の区別が機能しなくなれば、内在的自己批判契機も消失する。ヨーロッパ各国で排他主義的傾向が顕著になりつつあるその理由の一つはここにあると私は見ている。だが、この危機的状況が世界の再組織化を促す契機になるかもしれない。自壊か再組織化か、現代社会はその岐路に立っているように私には思える。