内的自己対話-川の畔のささめごと

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「無常観の上に根をはやして生きよう」 ― 阿部謹也『「世間」とは何か』の万葉集の読み方

2019-03-22 18:19:58 | 読游摘録

 昨日の記事のはじめに触れた山上憶良の「哀世間難住歌」における「世間」の特異性について、阿部謹也が『「世間」とは何か』(講談社現代新書)の中で次のように指摘しているのが目に留まった。

少年少女もたちまちのうちに老いてゆき、年をとった者が嫌われる厳しい現実が詠まれているが、ここでは、無常観は、他の歌人達とは違ってそのものとして客観化されている。最後につけられた反歌「常盤なす斯くしもがもと思へども世の事なれば留みかねつも」が全体をまとめている。永久に変わらない岩のようにありたいものと思うが、うつろいやすいこの世では年も命もとどめられないということを歌っている。いわば無常観の上に根をはやして生きようという覚悟のほどが歌われているといったらよいだろうか。

 阿部謹也は、ドイツ中世史家として高名な学者であり、『ハーメルンの笛吹き男』(一九七四年)によって一般読者にも広く知られるようになり、そのエッセイ集は好評を博した。しかし、日本の上代文学については、三重の意味で非専門家である。だから、和歌の規定の仕方や万葉集歌の解釈などには、そのまま肯うわけにはいかないところもある。
 しかし、阿部が万葉集歌に何を読み取ろうとしていたのかというのは自ずと別の問題である。上掲引用箇所が私の目に止まったのも、その捉え方の面白さによってだった。当該の憶良の歌に、いわゆる仏教的な無常観におさまりきらないもの、運命愛とまではいかないが、ままならず何ごとも留めがたいこの厳しく苦しい世間をそれとして認識した上で、それでも生きていってやるっ、という覚悟のようなものを阿部は読み取っている。