内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ショーペンハウアーの刃―「著述と文体について」より

2022-06-10 09:41:38 | 読游摘録

 ショーペンハウアーの『余録と補遺』に収められている一篇「著述と文体について」を読んでいて、その数々の鋭い洞察が耳に痛いどころか、研ぎ澄まされた刃のごとく心に突き刺さった。ところが、それで落ち込んでしまったかというと、そうでもなく、むしろ不思議な爽快感を覚える(もしかして、ワタシハスデニ死ンデイル?)。どんな言葉が突き刺さったか、例を挙げる(光文社古典新訳文庫『読書について』鈴木芳子訳)。

文体は書き手の顔だ。精神の相貌が刻まれている。それは肉体の顔よりももっと見まちがいようがない。他人の文体をまねるとは、仮面をつけることだ。仮面はどんなに美しくても、生気がないためにまもなく悪趣味で耐えがたいものになる。醜くても生きた顔のほうがいい。

著者の作品を二、三ページ読めば、どのくらい自分にとってプラスになるか、およそ見当がつく。

真の思想家はみな、思想をできる限り純粋に、明快に、簡明確実に表現しようと努める。したがってシンプルであることは、いつの時代も真理の特徴であるばかりでなく、天才の特徴でもあった。似非思想家のように、思想を文体で美々しく飾り立てるのではなく、思想が文体に美をさずけるのだ。なにしろ文体は思想の影絵にすぎないのだから。不明確な文章や当を得ない文章になるのは、考えがぼんやりしている、もしくは混乱しているからだ。

すぐれた文体であるための「第一規則」、それだけでもう十分とえそうな規則は、「主張すべきものがある」ことだ。

したがって冗長な表現はすべて避け、苦労して読むに値しない無意味なコメントを織り混ぜるのも一切やめなさい。読者に時間・労力・根気のむだづかいをさせてはならない。そうすれば、この書き手が執筆したものは注意深く読むに値し、手間ひまかけるだけの甲斐があると、読者の信頼を勝ち取れるだろう。

わずかな思想を伝えるのに、多くの言葉をついやすのは、まぎれもなく凡庸のしるしだ。これに対して多くの思想を少ない言葉におさめるのは、卓越した頭脳のあかしだ。

真理はむきだしのままが、もっとも美しく、表現が簡潔であればあるほど、深い感動を与える。そうすれば聞き手は雑念に惑わされずに、スッと真理を受け取ることができるからだ。また聞き手が修辞的技巧に魅了され、たぶらかされたのではなく、真理そのものから感銘を受けたと感じるからだ。たとえば、人間存在のむなしさについて、どんなに熱弁をふるっても、ヨブの言葉以上の感銘を与えるものがあるだろうか。「人は女から生まれ、つかのまの時を生き、悩み多く、花のように咲きほころび、しぼみ、影のようにはかなく消えてゆく」(『ヨブ記』第十四章第一~二節)

真に簡潔な表現とは、いつでもどこでも、言うに値することだけを語り、必要なものと余計なものを正しく区別し、だれもが考えつきそうなことをくだくだしく論じないようにすることだ。だが、簡潔さを求めるあまり、明瞭さを、ましてや文法を決して犠牲にしてはならない。わずか数語を省こうとして、思想の表現をよわめ、それどころか文章をあいまいにして萎縮させるのは、嘆かわしく無分別な行いだ。

 これらすべての言葉を肝に銘じて、これからも文章修行を続けていきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ニーチェからモンテーニュへ、あるいは「最後の人間」から「最初の人間」へ

2022-06-09 17:45:31 | 読游摘録

 昨日の記事に引用したマックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の一節で使われている「末人」という言葉は、ニーチェの『ツァラトゥストラ』の前口上の中の「末人」についての一節が念頭に置かれている。このことは諸家の指摘する通りであるが、ヴェーバーの言葉は、『ツァラトゥストラ』からの引用ではないし、ヴェーバーの言っていることはニーチェの言いたいこととはかなり異なっている。『ツァラトゥストラ』の当該箇所を手塚富雄訳で引用しよう。

かなしいかな。やがてその時は来るだろう、人間がもはやどんな星をも生み出さなくなる時が。かなしいかな。最も軽蔑すべき人間の時代が来るだろう、もはや自分自身を軽蔑することのできない人間の時代が来るだろう。/見よ。わたしはあなたがたにそういう末人を示そう。/『愛とは何か。創造とは何か。憧れとは何か。星とは何か』――そう末人はたずねて、まばたきする。/そのとき大地は小さくなっている。そして、その上にいっさいのものを小さくする末人が飛びはねているのだ。その種族は蚤のように根絶しがたい。末人は最も長く生きつづける。

 「末人 letzter Mensch」はとても印象深い言葉だが、もっと普通の日本語にすれば「最後の人間」ということであり、光文社古典新訳文庫の丘沢静也訳はそう訳している。手元にある四つの仏訳もすべて dernier homme と訳している。
 西洋精神史でこの矮小なる「最後の人間」と鮮やかな対照を成しているのがモンテーニュの「最初の人間」であろう。

世の著作家たちは、なにかしら特別で、いっぷう変わった特徴によって、自分の存在を人々に伝えようとする。しかしながら、このわたしは、文法家でも、詩人でも、法律家でもなく、まさに人間ミッシェル・ド・モンテーニュとして、わたしという普遍的な存在によって自分のことを伝える、最初の人間となるのだ。(第三巻第二章「後悔について」宮下志朗訳)

Les autheurs se communiquent au peuple par quelque marque particuliere et estrangere ; moy le premier par mon estre universel, comme Michel de Montaigne, non comme grammairien ou poete ou jurisconsulte.

 原文を見るとわかるように、premier homme という表現が使われているわけではないが、前後の文脈から考えて「最初の人間」と訳すことは妥当だと思う。
 この箇所について、大西克智氏は『『エセー』読解入門 モンテーニュと西洋の精神史』(講談社学術文庫 2022年)の中で、次のように述べている。

はたして、本人の期待どおりにことは運ぶのかどうか。ただ虚構を破壊しさえすれば、「私」が何者であるのかも明らかになるのかどうか。「私」の正体は、みずからを知り・導き・示すのだという意図に深く穿たれたアポリアと一蓮托生の関係にあり、まさしくそのことによって、モンテーニュは、彼自身の理解をはるかに超えた深く広い意味で、西洋の精神史における「最初の人間」となるでしょう。

 そして、終章の最後の方で、モンテーニュが「最初の人間」であるということを次のように解き明かしている。

彼は、みずからの意図と歴史の力との数奇な共振のうちに「全存在」を横たえた「最初の人間」でした。[…]こと彼自身の本領たる思索空間においてとなると、モンテーニュは「自分の意志を節約すること」がまったくできない人でした。その意味で、愚直な人でした。最後の言葉にいたるまで、おのれの愚直を言葉の存在根拠にしようと試みつづけた彼は、この点においてもまた西洋の精神史における「最初の人間」でした。

 ニーチェがモンテーニュを称賛していたことについては5月24日の記事で話題にした。私たち自身は、ニーチェの「最後の人間」からモンテーニュの「最初の人間」に立ち返ることができるだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで」― マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』より

2022-06-08 13:31:08 | 読游摘録

 昨日の記事で話題にした環境思想のアンソロジー La pensée écologique の巻頭にエピグラフとして引用されているのは、マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の終わりの方にある有名な一節である。近代社会において職業の専門化と全面的な人間活動の断念とは不可避であることの理由を説明している箇所である。以下の引用は岩波文庫版の大塚久雄訳。

というのは、禁欲は修道士の小部屋から職業生活のただ中に移されて、世俗内的道徳を支配しはじめるとともに、こんどは、非有機的・機械的生産の技術的・経済的条件に結びつけられた近代的経済秩序の、あの強力な秩序界(コスモス)を作り上げるのに力を貸すことになったからだ。そして、この秩序界は現在、圧倒的な力をもって、その機構の中に入りこんでくる一切の諸個人――直接経済的営利にたずさわる人々だけではなく――の生活のスタイルを決定しているし、おそらく将来も、化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで決定し続けるだろう。

 人はある特定の仕事を天職として(あるいは専門として)遂行しなければならないという近代の秩序界を作り上げるのに与って力を発揮した禁欲の精神をもはや必要としないほどに強固な枠組みとなった近代社会では、禁欲の精神の宗教的起源は完全に忘却され、近代社会は人々にとって、ただ働かなければならないから働き、ただ営利を上げなければならないからそのために身を粉にし、ただ競争に勝つために必死に競争する「鉄の檻」となった。ヴェーバーはこう問う。

将来この鉄の檻の中に住むものは誰なのか。そしてこの巨大な発展が終るとき、まったく新しい預言者たちが現われるのか、あるいはかつての思想や理想の力強い復活が起こるのか、それとも――そのどちらでもなくて――一種の異常な尊大さで粉飾された機械的化石と化すことになるのか、まだ誰にも分からない。それはそれとして、こうした文化発展の最後に現われる「末人たち」 »letzte Menschen« にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のもの(ニヒツ)は、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」と。――

 私たちがこの「末人」であるとして、ヴェーバーに対して私たちはどう答えるべきであろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


田中正造「直訴状」― 仏語で唯一の環境思想のアンソロジーに収められた唯一の日本語のテキスト

2022-06-07 16:30:27 | 読游摘録

 先月末に注文した中古本が今日届いた。La pensée écologique. Une anthologie, PUF, 2014 である。 Dominique Bourg と Augustin Fragnière による編集。前者はスイスのローザンヌ大学の教授で、環境思想・環境倫理を専門とする。後者は同大学の助手で博士論文準備中とある。やはり環境思想・環境倫理が専門のようだ。しかし、これは2020年(第3刷)の裏表紙の紹介文による情報であるから、現在の立場は違うかもしれない。 
 環境思想を何らかの仕方で表明した著作をその西欧的起源(ルソーとソーロー)から現代まで網羅した仏語のアンソロジーとしては、現在これが唯一である(総頁数は九百頁を超える)。収められた90以上のテキストのほとんどは欧米人の著作からの抜粋であり、しかも原著の言語は仏・英・独語に限られている。
 ところが、驚いたことに、一つだけ日本語のテキストの仏訳が収められている。その原テキストは、田中正造が明治天皇に宛てて認めた(より正確には、当時万朝報の記者であった幸徳秋水が執筆し、それに田中正造が加筆修正した)「直訴状」である。田中がこの書状を明治天皇に直接手渡そうとして果たせなかったのは、明治34(1901)年12月10日のことである(こちらの東京新聞の記事を参照されたし)。
 この直訴状がどうしてこのアンソロジーに収録されることになったのか、その経緯は詳らかにしないが、ジュネーヴ大学の日本学科の教授で日本史学者ある Pierre-François Souyri 氏が解説を書いているところからすると、彼の指導の下、若きスイス人研究者(フランスでの国際シンポジウムで二度会ったことがある)によって書かれた足尾銅山鉱毒事件についての博士論文(2019年提出)がきっかけになっているのかも知れない。その解説で、Souyri 氏は、社会正義を求める義民たちの命を賭した行為としての直訴は江戸時代から行われており、田中はその伝統に従っていることに一方では注意を促しつつ、他方では、環境保全と人権保護を訴える訴状の近代性を強調している。
 直訴状の原文は荘重な漢文訓読体で書かれてはいるが、住民の苦難を明治天皇に宛てて切々と訴えるその真率な思いが今も胸を打つ。それが明晰なフランス語に訳されて仏語圏で知られることは喜ばしいことだと思う。と同時に、直訴状の終わり近くに「臣年六十一而シテ老病日ニ迫ル。念フニ余命幾クモナシ。唯万一ノ報効ヲ期シテ敢テ一身ヲ以テ利害ヲ計ラズ」とあるのを読み、おのずと粛然とさせられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ただただ美しい文章に心洗われる幸い ― 山本安英『鶴によせる日々』より

2022-06-06 00:00:00 | 読游摘録

 昨日話題にした中井正一『美学入門』(中公文庫 2010年)第二部「美学の歴史」「四 時間論の中に解体された感情」の中の「永遠の一瞬」と題された節に、山本安英の『鶴によせる日々より』からの引用があります(137-138頁)。それはもうこの上なく美しい文章です。今日は、とにかくそれをお読みいただければ幸いです。ただただ、「ああ、ほんとうに美しいですね」―― そういう感情を分かち合いたいのです。

「しんとした空気の中に、さらさらという流れの音にまじって、何やら非常に微かな無数のさざめきが、たとえばたくさんの蚕が一勢に桑の葉を食べるようなさざめきが、いつの間にかどこからともなく聞えています。
 知らないうちに流れのふちにしゃがみこんでいた私たちが、ふと気がついてみると、そのさざめきは、無数の細いつららの尖からしたたる水滴が、流れの上に落ちて立てる音だったのです。そう思ってそこを見ると、その小さい水玉たちは、僅か三、四寸の空間をきらめいて落ちて行きながら、流れている水面にまた無数の微かな波紋を作って、この美しい光の交響楽は、ますますせんさいに捉えがたいせんりつを織り出しているのでした。そうしてその、きらめきわたる光りの帯をとおして、澄み切った水の底に、若い小さい芹の芽の浅緑が驚くほどの鮮かさでつつましく見えていました。」

 

 

 

 

 

 

 

 


「美しいこととは何であるか」― 中井正一『美学入門』(中公文庫 2010年)より

2022-06-05 16:04:25 | 哲学

 来年度の日仏合同ゼミの課題図書選択は迷いに迷った。その挙げ句、今日ようやく、最終的な決断をした。中井正一『美学入門』(中公文庫 2010年 初版 1951年 河出書房)にした。ただ、これはこちらからの提案に過ぎないので、もし先方が難色を示せば、変更せざるをえない。が、私としてはこれを推したい。
 本書では、美とは何かという問いをめぐって、哲学・美学についての予備知識なくても読めるような平易な日本語で多面的なアプローチが試みられており、技術と美の関係など、現代社会において問われるべき問いも提起されており、いろいろな角度から読解を試みることができ、学生たち自身がそれぞれ自分たちの関心に引き付けて一つのテーマを選んで考えてゆきやすいであろうというのが第一の選択理由。
 第二の選択理由は、昨年、きわめてすぐれた仏訳が出版されたので、弊学科の学生たちもその仏訳を参照しながらテキストの理解を深めてゆくことができ、先方の日本人学生さんたちとの合同発表のための共同作業もそれだけ行いやすいだろうということ。
 第三の理由は、比較的コンパクトな著作(本文のみだと164頁)で、安価な文庫本で入手できること(さらには、電子書籍版は青空文庫で無料で入手できること)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日々の哲学のかたち(7)― 自己自身を構築する

2022-06-04 08:39:15 | 哲学

 ESP の第一章には、プラトンの後に、古代代表として、エピクロス、セネカ、エピクテートス、プルタルコス、マルクス・アウレリウス、古典・近世代表(中世は飛ばされている)としてはスピノザ一人、近現代代表はエマーソン、ソーロー、ヒラリー・パットナムが選ばれています。
 ちょっと乱暴な話ですが、プラトンを第一章の「総代」とすることで、これらの哲学者のテキストの紹介は省略します。どうしても気になる方は、それぞれの哲学者の著作に直に当たられてください。どのテキストでも読んで損することはありません。
 ここで、このパヴィの本 ESP について一言小言を言っておきます。誤植がかなり目立ちます。出版を急いだせいなのか、初歩的な校正漏れが少なくありません。内容の理解に支障をきたすほどではありませんが、読んでいて気持ちの良いものではありません。
 さて、気を取り直して第二章に移りましょう。タイトルは、 « Apprendre à se connaître, prendre soin de soi et s’améliorer » となっています。己を知ること、己の世話をすること、己をよりよきものとすること、これらのことを学ぶためのテキストが集められています。
 古代から順に著者名と書名(作品名)を挙げると、ホメロス『オデュッセイア』、プラトン『ソクラテスの弁明』、プルタルコス『教育論』、エピクロス(に帰されている箴言)、アレクサンドリアのフィロン「神聖なるものを誰が継ぐのか」、エピクテートス『語録』、ルソー『エミール』、カント『人倫の形而上学』、フィヒテ「道徳意識」、エマーソン『運命』、フッサール(若き学徒の一人に宛てた手紙の一節)、ルイ・ラベル『ナルシスのあやまち』、スタンリー・カヴェル『アメリカ哲学とは何か』、ジョン・デューイ『経験としての芸術』です。
 またしても中世は無視されています。これはキリスト教的教説が含まれたテキストを排除するためだと思いますが、exercices spirituels と呼べる実践が中世にはなかったとは言えないと私は思います。その点、このアンソロジーに不満があります。
 それはさておき、どのテキストを引用しましょうか。長さに大きなばらつきがあり迷います。プラトンとルソーは一頁半、ラベルが一頁強、カント、フィヒテ、エマーソンが一頁と長めの抜粋であるのに対して、エピクロスに帰された箴言はたった一文です。「人間の情念の上手な取り扱いのために役に立たない哲学者の御託は空疎である」(私訳)。長いテキストは訳すだけでも結構時間がかかるので回避します。比較的入手しにくいテキストで短めな文章ということで、フッサールがアメリカの哲学者ドリオン・ケアンズ(Dorion Cairns 1901-1973、1924年から二年間フッサールのもとで学んだ)に宛てて1930年3月21日に書いた手紙の一節を私訳で引用します。

私の諸著作は、形式的に学ぶべき帰結を提供するものではないと心得てください。そうではなく、自己自身を構築することができるための基礎、自己自身に働きかけるための方法、自己自身で解決すべき問題を提供するものです。この自己自身とは、あなた自身です。もしあなたが哲学者でありたいのならば。しかし、人は、哲学者になることによってしか、哲学者になろうとすることによってしか、けっして哲学者にならないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日々の哲学のかたち(6)―「美しい希望をいだいて晴れ晴れと心安らかに去って行けるならば」 プラトン『国家』より

2022-06-03 08:32:49 | 哲学

 グザビエ・パヴィの Exercices spirituels philosophique (PUF, 2022) の序論の前半を三回に渡ってかいつまんで紹介してきました。その後半は哲学史的な記述が大半を占め、特別に注目に値する記述もないと私には思われるので、そこは飛ばしてアンソロジーの本体へと移りましょう。
 全九章からなるアンソロジー本体を構成するべく集められた古代から現代までのテキストを、私たちの生活のなかのそのときどきの心持ちと必要に応じて繰り返し読み、exercices spirituels の実践マニュアルあるいはガイドとして使ってほしいと序論の終わりの方(p. 62)で著者は述べています。確かに、本書は、哲学史の理解や知識のためのアンソロジーではなく、私たち自身が exercices spirituels を実践するために常に座右に置くべきマニュアルあるいはガイドとして使われることを目的として構成されています。
 第一章のタイトル « Apprendre à se préparer et s’équiper » が示しているのは、exercices spirituels の第一歩として為すべきことです。これから起こるであろう種々の困難な出来事に対して予め心の準備を整え(se préparer)、それらが実際に生じたときに心を乱されずに適切に対処するために必要な「道具立て」を身につける(s’équiper)ためにはどうすれば良いかという問いに答えるテキストがこの章には集められています。
 第一章の最初のテキストは、プラトンの『国家』から取られています。第六巻でソクラテスがアデイマントスの問いに答えて、哲学を伴侶とする資格のある少数の人々とはどのような人々かを説いている箇所(496c-497a)です。今日は『国家』の当該箇所を読みましょう。繰り返し読んでみましょう。

 さて、これら少数の人たちの一員となって、自分の所有するものがいかに快く祝福されたものであるかを味わい、他方、多数者の狂気というものを余すところなく見てきた者たち――彼らはまた、次のような現実を思い知らされるわけなのだ。すなわち、国の政治に関しては、およそ誰ひとりとして、何ひとつ健全なことをしていないと言っても過言ではないし、正義を守るために相共に戦って身を全うすることのできるような、味方にすべき同志もいない。野獣のただなかに入りこんだひとりの人間同様に、不正に与する気もなければ、単身で万人の狂暴に抵抗するだけの力もないからには、国や友のために何か役立つことをするよりも前に身を滅ぼすことになり、かくて自己自身に対しても他人に対しても、無益な人間として終るほかはないだろう……
 すべてこうしたことをよくよく考えてみたうえで、彼は、静かに自分の仕事だけをして行くという途を選ぶ。あたかも嵐のさなか、砂塵や強雨が風に吹きつけられてくるのを壁のかげに避けて立つ人のように、彼は、他の人々の目に余る不法を見ながらも、もし何とかして自分自身が、不正と不敬行為に汚されないままこの世の生を送ることができれば、そしてこの世を去るにあたっては、美しい希望をいだいて晴れ晴れと心安らかに去って行けるならば、それで満足するのだ。

岩波文庫『国家(下)』藤沢令夫訳

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今日からブログ十年目 ― ジョギングとブログの相補的関係から生まれる動態的思考、あるいは「ジョギング・シンキング」

2022-06-02 11:11:58 | ブログ

 今日六月二日からブログ十年目に入ります。先月はただ引用だけという「ズル」もしました(皮肉なことに、その日に「いいね」を普段以上にいただきました)が、とにかく毎日投稿という原則は辛うじて丸九年間守り通しました。
 凝り性というほどではないと自分では思っていますが、一度ある決意をもって始めたことは簡単には投げ出さないようにはしてきました。水泳は昨年六月半ば以降まったく止めてしまいましたが、それまで十一年以上続けていましたし、今は水泳に代わってジョギングを続けています。水泳は毎日とまではいかず、年平均二三〇回ほど、一番よく通った年でも二六五回でしたが、ジョギングはほぼ文字通り毎日続けています。連続運動記録も先月末に更新し、今日で百十六日連続になります。
 何か一つのことを続けているとそれが中毒のようになり、やめるにやめられなくなるということもあります。でも、アルコール依存症や薬物依存症は身体を蝕みますが、「ジョギング依存症」は基本的に健康を害することはないでしょう。もっとも、脚の痛みを我慢してまで無理に続けるところまで「症状」が進行すると、それも健康を害してしまうでしょうけれど。
 昨年七月、ジョギングを始めた直後は、初心者にはよくあることのようですが、前脛骨筋に痛みが出て、走ろうにも走れない日もありましたが、その後無理はしない範囲でとにかく続けてきたおかげで、今はどこにも痛みが出ることがありません。今年に入ってしばらく気になった左脚のアキレス腱の痛みもなくなりました。一時間で十キロを基本とし、明日からも走り続けます。
 今の私の日常生活にとって、ジョギングとブログは心身の健康を維持するために不可欠となり、かつ両者は相補的な関係にあります。
 具体的に言うと、ブログに書いた思いつきがジョギング中に「自ずと」展開したり、別のアイデアが浮かんで思考がより立体的になったりするのです。身体が静止状態のときに生まれた考えが、走りによって活性化され、動態化し、その動態化した思考をブログで文章として定着させる。その文章として定着させた思考が翌日の走りでまた動態化する。
 この終わりなき動態的思考を「ジョギング・シンキング」と名づけることを提案します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日々の哲学のかたち(5)― 人を形作る

2022-06-01 23:59:59 | 哲学

 Exercices spirituels は、それが実効性をもつためには一人の人の全面的かつ持続的な修練を必要とする。 « exercice » という言葉は、ラテン語の exercitium から来ており、それは「誰かを何かに向けて訓練する」あるいは「自らを養成する」という意味をもっている。それは、働き、訓練、反復、学習と密接な関係にある。その他のすべての実践と同じように、exercices spirituels もまた一定の意味と目的をもっている。訓練を始めるまえに、最終的な意味、それを実践する理由、訓練を通じて自分がなりたいと思うものをはっきりさせておく必要がある。何らかの職業においてプロになるためには、一定の目的を定め、その目的に適った訓練を行わなくてはならないのと同じように、exercices spirituels にもそれらが必要である。
 しかし、最初から自分だけでそれらのことがわかり、正しく実践できるくらいなら、exercices spirituels はたいして難しいことではない。実際は、何が最終目的なのか、そのためには何をどう訓練すればいいのか、よくわからないままに実践に取り組みはじめなくてはならない。exercices spirituels を目的に適った仕方で実践するには、だから、自分を導いてくれる師としての哲学者を必要とするのだ。
 フランス語の « former » という言葉はとても示唆的な言葉だ。「形作る」というのが基本義だが、目的格補語が人である場合、その人を「養成する」という意味になる。つまり、一定の目的に適った「形を身につけさせる」ことである。Exercices spirituels はまさにこの意味で「人を形作る」ことである。 再帰動詞 « se former » は「自らをある形に成す」あるいは「ある形が成る」ということである。
 人(あるいは自分)を「ある形に成す」、人が「形に成る」とはどういうことか。それは、現実の試練を受けることを通じてはじめて可能になる。現実の試練を通じてはじめて、人は徐々に形に成っていく。その形成がうまくいくには、形成過程における進歩の度合いを評価する基準も必要だ。
 Exercices spirituels としての哲学は、人としての形を成すための実践的かつ持続的な訓練のことである。