内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

面接試験の心得を学生たちに伝授する

2024-02-09 23:59:59 | 雑感

 日本に留学する学生たちが申請するさまざまな奨学金の審査の一環として行われる日本語での面接試験のトレーナーの役割を学科内で数年前から引き受けている。というのも、過去私が指導した学生は全員合格しているという実績があり、そのことが学科長から学生に伝えられたり、学生間で噂になったりして、模擬面接の依頼が毎年この時期になると来るようになった。
 今朝も二人指導した。指導は一回30分から一時間、二回セットで行う。一回目は面接上のさまざま注意点を学生に伝え、それを踏まえてプレゼンテーションを準備してくるように伝え、ニ回目に模擬面接を行う。今日の一人目は一回目。出願願書に日本語の間違いが目立ったので、それを一緒に訂正しながら、表現上のアドヴァイスをし、さらに面接試験での三つの重要ポイントを示し、それらの点について予想される質問に対する答えを次回までに準備してくるように伝えた。模擬面接は月曜日に行う。もう一人は今日が二回目。一回目は先週金曜日だった。この学生は抜群にできる学生で、私が指導しなくてもほぼ合格間違いなしなのだが、本人が心配性で細かい点を気にしすぎるので、そんなことは大して重要ではない、小さい間違いは気にせず、自信をもって面接に臨め、と励ますだけで、あとは本人に自由に日本語で話させ、リラックスさせた。
 私自身は大学でポストを得るまでに四回最終審査のオーディションで落とされているが、その苦い経験を通じて鍛えられもした。現在のポストを得たのはちょうど十年前だが、そのときのオーディションでのプレゼンテーションはまさに会心の出来であり、後で審査員長からプレゼンテーションとその後の質疑応答が最終決定の決め手だったと教えてもらった。そのときに身につけた面接に臨む際のいくつかの心得は、学生たちの面接試験にも適用可能であり、学生たちにはそれを噛んで含めるように「無償で」伝授している。
 三年ほど前、あるシンポジウムでそのことが話題になり、他大学の先生から「うちの学生も指導してよ」と頼まれたのだが、「他大学の学生は有料ですよ」と冗談半分に断った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日仏合同ゼミについて ― 参加学生たちへの感謝を込めて

2024-02-08 20:44:06 | 雑感

 一昨日の丸一日と昨日の午前中に亘る法政大学哲学科の19名の学生と弊学科修士一年の19名の学生との合同ゼミがストラスブール大学の中央キャンパスのある教室で行われた。
 昨年9月からの月一回の遠隔合同授業や日仏学生間のZOOM・LINE・DISCORD等による随時のコミュニケーション等を通じて五ヶ月準備を重ねてきたプログラムの仕上げとしてのこの二日間の学生たちのプレゼンテーションとディスカッションは、全体として、私がこのプログラムを担当してきた十年間の中で、最高の出来であったと思う。今回初めて導入したミニ・グループ・システムもおおむねよく機能した。
 昨晩、法政大学の学生たちとのストラスブールのレストランでの夕食時、今回の合同ゼミについて一人一人に感想と意見を聴いて回った。そのときに彼女たち・彼らたちが率直に話してくれたことは、今後プログラムをさらに充実した実りあるものにしていくために本当に有益な示唆に満ちていた。ありがとう。
 参加したすべての学生たちにとって、おそらくは日本にもフランスにも他に例のないこのプログラムが、単に今後の学業にとってだけではなく、大げさではなく、今後の人生にとって貴重な経験であることを心から私は願う。
 とはいえ、財政上・行政上の問題も多々あり、世界的に見ても稀有なこのプログラムが来年度以降も継続されるかどうかは自明ではない。確かに、このようなプログラムは、担当教員だけでなく、事務方にも多大の負担を強いる。「無理して続けることもないのではないか。やめたければやめれば」という声も日本側にはあると聞く。それは理解できなくはない。
 それでも私は声を大にして言いたい。このプログラムは、異文化コミュニケーションのあるべき一つの形を実現してきたのであり、その一つのモデルとして高らかに掲げるに値する、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


紫式部の生涯(最終回)― この身が消えるまで、それでも私は生き続ける

2024-02-07 23:59:59 | 読游摘録

 昨日の記事で紹介した『紫式部ひとり語り』には、まるで式部が著者に憑依したかのように真実味に溢れた独白体の文章がいたるところに見られる。それは著者が式部の作品を長年に亘って深い愛情とともに読み込んできたからこそであろう。その独白の真実性が、著者によって丹念に共感を持って博捜された同時代の文学作品・日記・史料等によって裏づけられている。作家の想像力の産物としての独白形式とは異なった、それとして独自のジャンルを確立したとさえ言ってもよい稀有な作品になっていると思う。
 この作品には、『紫式部集』から取られた和歌が式部の人生のそれぞれの時期の感懐を集約しているかのように散りばめられているが、著者によるその現代語訳が式部の心のメッセージの読み解きになってもいる。最終節「初雪」から引く。友人からの雪見舞いの手紙を受け取って、式部は歌を詠む。

 私は外を見た。ああ、確かに雪が降っている。初雪だ。真っ白な雪がひとひら、またひとひらと、古く荒れた庭に舞い落ちている。
 そうだ、私にもこの初雪のような時があった。無垢で何も知らず、恐れもせずにこの人生という庭に降り立った時が。しみじみとした思いが心に満ちて、私は詠んだ。

ふればかく 憂さのみまさる 世を知らで 荒れたる庭に 積もる白雪
〔世の中とは、生きながらえれば憂いばかりが募るもの。そうとも知らず初雪が、この私の荒れた庭に降っては積もってゆく。〕
                                           (『紫式部集』113番)

 私は人生を振り返る。出会いと別れの人生。憂いばかりの人生だった。だが長く生きてみてやっと分かった。それが「世」というものであり、「身」というものなのだ。これが私の人生だったし、これからもそうなのだ。

いづくとも 身をやる方の 知られねば 憂しと見つつも 永らふるかな
〔いったいどこに、憂さの晴れる世界があるというのでしょう。そんな世界などありはしません。いったいどこに、この身を遣ればいいのでしょう。そんな所も知りません。この世は憂い。そう思いながら、私は随分長く生きて来ましたし、これからも生きてゆきます。心配してくれてありがとう。大丈夫、ちゃんと生きているから。〕
                                        (『紫式部集』114番巻末歌)

そう、この身が消えるまで、それでも私は生き続ける。

 この巻末歌については、2014年12月1日の記事に私見を記している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


紫式部の生涯(十)― 千年後の今の世にも生き永らえる

2024-02-06 23:59:59 | 読游摘録

 『紫式部日記』の注釈書類から紫式部の生涯について記述された部分を摘録する作業は昨日で終えた。
 一般向けの書籍のなかで紫式部の生涯を知る上で私がもう一冊欠かせないと思っているのが山本淳子氏の『紫式部ひとり語り』(角川ソフィア文庫、2020年)である。
 紫式部の独白という「冒険的な」形をとった本書は、学術書ではもちろんなく、式部が自身の心情を語っている箇所には著者の文学的想像力に基づいたフィクションの要素が入り込んでいることは否定できないが、全体として、紫式部の生涯を知る上での絶対的第一次資料である『紫式部日記』と『紫式部集』に依拠しつつ、同時代の文学作品、紫式部をめぐる歴史資料、国文学・国史学の研究成果を十二分に取り入れて構成された「本人による証言、言わば打ち明け話」になっており、紫式部の「心」に近づく確かな道筋を読者に示してくれる。
 その「文庫版あとがき」に、この冒険的な方法は、「研究者として熟考の末に選んだものだった」と著者は記している。『紫式部日記』や『紫式部集』という、「紫式部が直接読者に語り掛けた作品を土台にする以上、それらと同じ方法をとることこそが、研究者として誠実だと考えたのである」とその選択の理由を説明している。その試みは見事に成功していると私は思う。
 同じあとがきの最終段落で著者が述べていることからは、その研究者としての誠実さ伝わってくる。

生き長らえば憂さばかりが募る、世というもの。しかし私たちの身には、ここ以外に居場所がない。だからただ生きていくのだと、紫式部は詠んだ。だがそうではないと、私は紫式部に伝えたい。あなたの作家としての人生は、千年後にまでその作品が読まれることで、今の世にも生き永らえている。だから私もあなたの思いを、一人でも多くの人々に伝え続けたいのだと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


紫式部の生涯(九)

2024-02-05 07:06:50 | 哲学

 紫式部の生涯についてこれまで摘録してきた『紫式部日記』の三つの解説はいずれも優れた専門研究者の手になる代表的なもので、それぞれから学ぶことは多かった。
 『紫式部日記』の訳注本は他にももちろんある。そのなかで私が特に高く評価しているのが角川ソフィア文庫版の山本淳子=訳注(二〇一〇年)である。この版の解説の充実ぶりは、同文庫の日本古典作品シリーズのなかでも際立っている。
 解説本文だけで五十七頁あり、それに主要登場人物紹介、系図、年表が付されており、それらを合わせると九十四頁にもなる。単に量的に多いというだけではなく、内容的にも懇切丁寧・網羅的かつ高度でありながら、文章は読みやすい。もし『紫式部日記』の訳注本を一冊だけほしいという方には、文庫という持ち運びやすさと手頃な値段も相俟って、この一冊を第一に推薦したい。
 同じ山本氏の編になる『紫式部日記』(角川ソフィア文庫・ビギナーズ・クラシックス日本の古典、二〇〇九年)は、ダイジェスト版だが、収録された各本文に付された解説はわかりやすく、ところどころに挿入されたコラムの内容も興味深い。
 文庫サイズでは、他に講談社学術文庫から宮崎莊平氏による全訳注が一冊の新版として昨年刊行された(初版は同文庫から二〇〇二年に上下二冊本として刊行)。語注の詳しさではこれが類書中一番だが、作品解説はちょっと物足りない。
 さて、以下、角川ソフィア文庫版『紫式部日記』の山本淳子氏による解説の「III 紫式部について」から摘録を行う。これまで摘録してきた他の解説と内容的に重複するところもあるが、紫式部の生涯について、その家系、幼少期から最晩年まで、要点を辿り直す。

家系
 曾祖父の代までは公卿として繁栄。
 父方の祖父雅正は生涯受領にとどまり、従五位下に終わった。
 紫式部の家は和歌の家。
 曾祖父たちの余光は高い自負を胸に抱かせ、いっぽう祖父の代からの零落を痛感。

少女時代
 母とは幼い頃に死別したか、離別。同母の姉がいたが、式部の娘時代に亡くなった。
 家庭において、『史記』や『白氏文集』など漢籍を心から楽しみ、おそらくはそれに没頭する日々を送った。

結婚
 紫式部は本妻ではなく、妾(本妻以外の妻)の一人だったので、結婚は終始宣孝が彼女を訪う妻問婚の形であった。

夫の死
 『紫式部集』の和歌は、夫との死別を境に一変し、人生の深淵を見つめ、逃れられぬ運命を嘆くものとなる。彼女は夫の人生を「露と争ふ世」と詠んでそのはかなさを悼み、自分のことは「この世を憂しと厭ふ」と言い捨てた。「世」とは命や人生、また世間や世界を意味する言葉だが、そこに共通するのは、〈人を取り囲む、変えようのない現実〉ということである。そして、そうした「世」に束縛されるのが、人の「身」である。人は「身」として「世」に阻まれ生きるしかない。ただ死ぬまでの時間を過ごすだけの「消えぬ間の身」なのだ。夫の死によって、紫式部はそのことに気づかされたのである。
 ところが、やがて紫式部は、「身」ではないもう一つの自分を発見する。それは「心」である。ある時気がつくと、思い通りにならない人生という「身」は変わらないのに、悲嘆の程度が以前ほどではなくなっていた。
 「心」は「身」という現実に従い、順応してくれるものなのだ。だがやがて紫式部は、心というものの、現実を超えた働きにも目を向けるようになる。
 現実に適応しない心なら、その居場所は虚構にしかない。こうして紫式部は、寡婦であり母である「身」とは別の所に自分の心のありかを見つけるようになる。

出仕
 紫式部の内心は、居所が後宮に変わろうとも、常に「身の憂さ」に囚われていた。

一条朝以降
 『紫式部日記』にも描かれる「憂さ」は生涯消えることがなかった。だがそれを抱えつつ、やがて憂さを受け入れ、憂さと共に生きる境地に、紫式部は達したのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


紫式部の生涯(八)

2024-02-04 02:35:45 | 読游摘録

 ある程度予想はできたことでしたが、昨日の記事のような親しみやすい話題のとき、拙ブログの普段の小難しい(あるいはクソ難しい)記事に比べて格段のご注目を賜り、アクセス数も閲覧者数も普段の倍、総合ランキングも366位まで上がりました。十一年以上このブログを続けていて、過去の最高位は265位ですから、拙ブログとしてはかなりの好成績でございました。昨日の記事にアクセスしてくださった方々に心より御礼申し上げます。
 でも、正直に申し上げますと、ウケ狙い路線は疲れるし、結局、虚しい、です。自分の書きたいこと、書き留めておきたいこと、書き写しておきたいこと、それらを飽きもせず淡々と記事にし続けていく。それが私の性に合っています。
 というわけで、今日からまた、連載「紫式部の生涯」に立ち戻ります。

 新編日本古典文学全集(小学館、一九九四年)版の紫式部日記の解説からの摘録を再開する。式部の生涯についての私見は予定している摘録がすべて終わったあとに述べるつもりである。

 式部の宮仕えの仕方は、他の女房たちとは著しく異なっていたようである。しかも、住み込みの勤務地であったはずの中宮彰子の後宮から、かなり自由に里下りつまり自宅に帰ることを許されてもいる。

 以下は新編日本古典文学全集版解説からの文字通りの摘録ある。

 「式部の宮仕え生活における役柄ははっきり定まったものではなく、中宮付きの教養面での世話係という程度のものであったらしい。日常は中宮の話相手はもちろんのこと、洗面や髪の手入れ、食事や衣装の世話、香・双六・和歌・音楽などの相手、訪問客や手紙の取次ぎなど、一般の女房と同じような仕事をしていたと思われるが、日記に見える草子作りや楽府進講などこそが、彼女ならではの職分であろう。」
 「いささか不自然なのは、彰子付きの主要女房でありながら、公的な行事にも歴とした役柄はなく、里下りは自由でしかもしばしば長期間に及んでいる。このような待遇は、おそらく夫の死没前後に出された『源氏物語』の原初の数巻によって、ある程度の文才を認められており、主人側もその自由な宮仕えを許していたのであろう。宮仕え当初、中宮や他の女房たちから、自信ありげにとりすましていて親しみにくい人だと見られたのも、彼女の生来の引っ込み思案の性格や宮仕え嫌悪感に加えて、こうした文才についての前評判が災いしたとも考えられる。」
 「しかし、このような状態も宮仕えの初期のころで、日記に記されたころの式部の宮仕えぶりを見ると、消極的ではあるが人嫌いではなく、気心の知れた朋輩とは結構楽しく付き合っている。また中宮や道長や倫子には特別に扱われているようであり、そのお陰もあってか、上達部や女房たちも決して疎略には扱っていない。それは『源氏物語』の執筆の進展によって、式部の文才が本当に周囲に認められて来たからであり、自らもそれに自信を得た結果であろう。」
 「このように、中宮彰子のサロンにおける式部の宮仕え生活は、身分以上に好遇を受けており、それほど憂く辛いものではなかったはずである。それにもかかわらず、日記全体に漂う嫌悪感は、どう理解すべきであろうか。それはおそらく、若いころに経験した宮仕えのあまりよくない印象を核とした、社会の裏面や谷間をも見過ごさない作家精神のなせるわざであろう。自らの幸いよりも他人の不幸や社会の矛盾を鋭く感受し、それを吸収回帰することによって自らの幸いを打ち消し、陰の部分を助長するような精神作用が、式部の心の中で絶えず反芻されている結果。宮仕えを嫌悪し、世を憂しとする総評価が生まれたものと思われる。」
 「式部の宮仕えは、はじめのニ、三年は里居がちで、あまり精勤ではなかったらしい。[…]そしてこの期間こそ、道長や倫子の庇護のもとに『源氏物語』を長編物語として着々と書き進めていた時期であったと思われる。この間のことに道長の強い後援があったことはいうまでもなく、当時貴重であった紙や墨の供給をはじめ、経済的物質的な援助を受けたことであろう。」
 「このような道長の絶大な庇護があってこそ『源氏物語』は長編物語としての完成を見たといっても過言ではあるまい。そして式部自身も道長の寛大な包容力に惹かれ、やがてその情を受け入れるまでになったものと思われる。[…]日記に散見される道長への賛辞や温かいまなざしは、『尊卑分脈』に「御堂関白妾」とある注記を裏付けるもので、式部が道長の召人であったことは疑問の余地がないと思われる。」
 「『源氏物語』は、物心両面における道長の強力な庇護のもとに、彰子中宮サロンないし道長・倫子をも含めた土御門サロンを初期の享受層として、世に送り出されたものと認められる。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


昭和歌謡曲1970年代偏愛的女性歌手編

2024-02-03 03:41:43 | 私の好きな曲

 あきまへん。紫式部どころではありまへん。昨日の記事であんなこと書いてしまったら、もうしばらくは昭和50年代ノスタルジーから抜けられそうもありません。
 それに、昨日は洋楽でしたが、当然のこととして、同時代の邦楽はどうなんやという物言いがついたわけです(ふーん、誰から?)。
 とはいえ、これはもう考えだしたら一週間は他のすべての仕事を擲って没頭しても時間が足りないほどの重大テーマですので、今日一回の記事ですむように、以下のようなかなり厳しい「縛り」を掛けることにしました。

1.七十年代によく聴いた曲と聞かれて、直感的に思い浮かぶ歌手と曲に限る。
2.女性歌手に限る。男性歌手が嫌いということではありません。
3.自分と同世代かちょっと上の世代の歌手に限る。他の世代が嫌いということではありません。
4.必ずしもその歌手たちの代表曲とは限らない。単に私にとって思い出深い曲である。
5.誰がなんと言おうと、「好っきやねん」と言い切れる曲。

 以上の選曲基準にしたがって選んだのが下記の十五曲であります。

南沙織  潮風のメロディー  1971
小柳ルミ子  わたしの城下町   1971
森昌子  せんせい   1972
アグネス・チャン  ひなげしの花   1972
麻丘めぐみ  わたしの彼は左きき  1973
桜田淳子  わたしの青い鳥   1973
山口百恵  ひと夏の経験   1974
岩崎宏美  ロマンス   1975
太田裕美  木綿のハンカチーフ  1975
キャンディーズ  年下の男の子   1975
ピンク・レディー  ペッパー警部   1976
石川さゆり  津軽海峡・冬景色  1977
尾崎亜美  マイ・ピュア・レディ  1977
渡辺真知子  かもめが翔んだ日  1978
八代亜紀  舟歌    1979

 それぞれの曲について思い出を書き出すと、一曲につき一記事ということになりかねないので、万感の思いを込めて、一曲についてだけ書きます。
 その一曲とは、尾崎亜美さんの「マイ・ピュア・レディ」です。この曲、大学受験を直前に控えていたとき、資生堂のコマーシャルソングとして使われたのですよ。そのコマーシャルはですね、もし私の記憶が確かならば(って、それが怪しいわけですが)、天から降臨した美神のごとき小林麻美さんがどこかの陸上競技場でカメラに向かって裸足で全力疾走してくるのです。そして、ゴールして息を切らした彼女の顔がどアップになった瞬間、「あっ、気持ちが動いている、たった今、恋をしそう」って歌詞が流れるのですね。
 もう、まさに、釘付け、でした。「どうしてくれるんだ。こんなもん毎日テレビで何度も流されたら、受験勉強に集中できないじゃん(って、見なけりゃいいわけですが)」と資生堂に抗議の電話を掛けたい衝動を辛うじて抑え(というのは嘘ですが)、なにはともあれ、見事現役合格したのであります(なに、結局、それが言いたかったわけ?)。
 しかし、今から思い返せば、この安易な現役合格がそれ以後のすべての不幸の始まりだったのかも知れませぬ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


1970年代よく聴いた洋楽をふと思い出し、私的リストを作る

2024-02-02 04:07:40 | 私の好きな曲

 好評(?)連載「紫式部の生涯」は、ちょっと飽きたので、一回休止。休止にそれ以上の特別な理由はありません。
 昨晩、夕食時、観たいと思えるドラマがなくて、なぜか1970年代によく聴いた洋楽が頭の中で鳴り出して、そうすると次から次へと当時繰り返し聴いた曲が思い出されて、マイ・リストを作ってしまいました。
 私個人の非常に偏った好みと貧しい記憶に頼っているので、その時代を代表しているとは必ずしも言えませんし、一人あるいは一グループにつき一曲に限ったので、彼らの代表曲あるいは最高の曲というわけでもありません。ただ私には限りなく懐かしい曲たちばかりです。
 これらの曲をアップル・ミュージックで検索して聴いていると、それらの曲が流行っていた頃の時代の空気が自ずと思い起こされて、ちょっと、いや、かなり、ほろっとしてしまいました。ホント、年ですね。
 ベスト・テンではとても収まらなくて、17曲という中途半端な数になりました。まだまだリストが長くなりそうなのですが、今日のところはこれで止めておきます。

サイモンとガーファンクル  Bridge over Troubled Water 1970
キャロル・キング  You’ve got a friend  1971
レッド・ツェッペリン  Black Dog   1971
エルビス・プレスリー  Burning Love   1972
ディープ・パープル  Smoke on the Water  1972
スティビー・ワンダー  Superstition   1972
ローリング・ストーンズ  Angie    1973
カーペンターズ  Yesterday Once More  1973
エルトン・ジョン  Goodbye Yellow Brick Road 1973
クイーン  Bohemian Rhapsody  1975
オリビア・ニュートンジョン  Have You Never Been Mellow 1975
イーグルス  Hotel California  1976
アバ  Dancing Queen   1976
リンダ・ロンシュタット  It’s so Easy   1977
ビリー・ジョエル  The Stranger   1977
10cc  Lifeline   1978
アース・ウィンド・アンド・ファイアー Boogie Wonderland 1979

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


紫式部の生涯(七)

2024-02-01 09:58:02 | 読游摘録

 今日から新編日本古典文学全集版(1994年)の中野幸一氏による解説の摘録を始める。ただすでに他の解説で言及されていた史実そのものについては繰り返さない。それに対する解説者の見解が示されているところに限って録する。
 式部が幼少の頃からきわめて聡明であり、男子でないことを父為時がしきりに残念がったという日記中の逸話はよく知られている。その点について、中野氏は次のような見解を示している。
 「それ以上に看過できないことは、学者の父がいつも式部を男と対等もしくはそれ以上に評価して、それを口に出していたということである。それは式部の知的な面での自信を過剰なまでに醸成したと思われるが、その性格は後年の宮仕え生活における対男性意識や、知的女房に対する強い批判精神にも連なるものであろう。」
 当時の女性が漢学を修めたところで実社会では無用であったことから、式部にその口惜しさがあったことを強調する研究者もあるが、中野氏は、一流の文人であった父親からの評価に裏付けれられた知的な面での式部の不抜の自信を強調している。
 父の赴任にともない下向した越前での生活についても中野氏は次のように積極面を前面に打ち出す。
 「越前国府での一年あまりの生活は、成人した式部にとって、またとない貴重な体験であったと思われる。ことにこの北国行きは、地味な環境に育った内気な式部にとっては、おそらく初めての大旅行であっただけに、そのすぐれた才質と鋭い感受性はある種の驚きをもってみずみずしく躍動し、未知の国の人情・風物を十二分に吸収して、大いに見聞を広めたことであろう。その体験が直接間接に後の物語創作に活かされたであろうことも想像に難くない。」
 ここまで積極性を強調する確たる資料的根拠はないに等しいが、私も、素人ながら、こんな風に想像してみるほうが楽しい。
 『源氏物語』執筆開始時期については次のような見解が述べられている。
 「夫に死別してから中宮彰子の許へ出仕するまでの数年間は、一般に『源氏物語』の執筆時期と考えられているが、『源氏物語』のような長編物語の執筆には強力な援助者と読者の支持を必要とするものであることを考え合わせると、この間を『源氏物語』の執筆期間とすることはまず無理であろう。ごく自然に考えれば、夫に急逝されて幼児を抱えた寡婦が、当座は物語の執筆などというすさびごとに心を入れる余裕はないと見るほうが実情に近いと思われる。少なくとも亡夫の一周忌を過ぎるまでは、こみ上げる悲しさに耐えつつ、愛娘の養育のみを心の慰めに日々を送るのが精一杯であったろう。もし物語創作の筆をとるとすれば、寡婦生活の寂しさにある程度馴れてからのことと思われる。」
 しかし、『源氏物語』執筆開始時期が中宮彰子への出仕以前であることは確実である以上、誰がいつから何をきっかけとして式部に物語創作のための援助を始めたのかという問いは残る。その援助者が道長であったとすれば、その道長からの娘中宮彰子の許への出仕の慫慂は断りにくかったであろう。
 「生来の内気と過去の経験から宮仕えには消極的であったと思われるが、相手が今をときめく道長ではあるし、父の官途や一族の将来を思い、また自らの境遇を顧みて、出仕を承諾したのであろう。女性として文藻豊かな中宮サロンに対する秘かな憧憬もあったかもしれない。」