内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

哲学者の末期の沈黙 ― メーヌ・ド・ビラン『日記』最後の記事と死の前日の自筆証書遺言との間(3)「私を苦しめているのは私の精神の弱さである」

2024-10-21 23:59:59 | 哲学

 ビランの最後の日記の続きを読もう。

 Le stoïcien est seul ou avec sa conscience de force propre qui le trompe ; le chrétien ne marche qu’en présence de Dieu et avec Dieu par le médiateur qu’il a pris pour guide et compagnon de sa vie présente et future.
 C’est l’infirmité de mon esprit qui m’afflige plus encore que l’infirmité de ma chair à qui la première se lie. Je ne sais plus que devenir. Si l’état maladif du corps avait pour effet d’ouvrir les yeux de l’esprit et de changer le cœur, il serait heureux de souffrir, mais je cours encore après la vanité bien plus qu’après la vérité ; je cherche le monde pour ranimer un reste de vie physique languissante, quoiqu’il me dégoûte et que je ne sois plus dupe d’aucune de ses illusions.

 上の段落だけを読むかぎり、ストア派の生き方と敬虔なるキリスト教徒の正統的な生き方とが比較され、前者が後者の立場から批判されているだけだが、次の段落では、ビラン自身は、神を必要としながら神とともに歩むことができず、導き手であり伴侶である仲介者イエス・キリストによって神とともにあることができない自分の苦しみを吐露している。
 私を苦しめているのは私の精神の弱さなのであり、それが結びついている肉の弱さ以上に私を苦しめる。私はもはや何になるべきなかわからない。肉体の病的な状態に、精神の目を開き、心を変える効果があるのなら、苦しむことは幸せなことであろう。ところが、私はいまだに真理を追い求めるよりも、虚栄を追い求めて走っている。私は、衰弱した身体的生命の残りに生気を取り戻させようと世俗世界を追い求める。たとえそれが私をうんざりさせ、もはやその幻想に騙されなくなっているとしても。
 虚栄 vanité と真理 vérité とがイタリックで強調され、韻を踏んでいるのが痛々しい。世俗世界は幻想に満ちていると身に沁みてわかっていながらそこから身を引き離せないとの嘆きは、死に至るまで下院議員であり、死の2週間前に下院議長に体調不良ゆえに議員としての職務を果たせないことを詫びる誠実な手紙を送っているビランだけになおのこと痛切に響く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


哲学者の末期の沈黙 ― メーヌ・ド・ビラン『日記』最後の記事と死の前日の自筆証書遺言との間(2)「孤身にして跌倒る者は憐なるかな」

2024-10-20 13:49:48 | 哲学

 昨日引用した5月17日の日記の冒頭の段落に続く短い二段落を引用する。

 Il faut toujours être deux et l’on peut dire de l’homme, même individuel, vae solo ; si l’homme est entraîné par des affections déréglées qui l’absorbent, il ne juge ni les objets, ni lui-même ; qui s’y abandonne, il est malheureux et dégradé, vae solo !
 Si l’homme, même le plus fort de raison, de sagesse humaine, ne se sent pas soutenu par une force, une raison plus haute que lui, il est malheureux, et quoiqu’il en impose au dehors, il ne s’en impose pas à lui-même. La sagesse, la vraie force consiste à marcher en présence de Dieu, à se sentir soutenu par lui, autrement vae solo !

 ルフランのように3度繰り返される « vae solo » という句は旧約聖書伝道之書第4章第10節の「孤身にして跌倒る者は憐なるかな」(岩波文庫『文語訳 旧約聖書 III』)から取られている。ビランの viscéral な魂の叫びを聴く思いがする。
 この句が出てくる前後も含めて、第7節から第12節まで引用する。

我また身を転らし日の下に空なる事のあるを見たり 茲に人あり只独にして伴侶もなく子もなく兄弟もなし然るにその労苦は都て窮なく其目は富に飽ことなし彼また言はず嗚呼我は誰がために労するや何とて我は心を楽しませざるやと是もまた空にして労力の苦しき者なり 二人は一人に愈る其はその労苦の為に善報を得ればなり 即ちその跌倒る時には一箇の人その伴侶を扶けおこすべし然れど孤身にして跌倒る者は憐なるかな之を扶け起す者なきなり 又二人ともに寝れば温煖なり一人ならば争で温煖ならんや 人もし其一人を攻め撃たば二人して之に当るべし三根の縄は容易く断れざるなり

 グイエが脚注で引用しているのは、17 世紀後半に成就したフランス語訳聖書の至宝である  Louis-Issac Lemaître de Sacy 訳である。それも引いておく。

En considérant toutes choses, j’ai trouvé encore une autre vanité sous le soleil. Tel est seul et n’a personne avec lui, ni enfant, ni frère, qui néanmoins travaille sans cesse ; ses yeux sont insatiables de richesses, et il ne lui vient point dans l’esprit de se dire à lui-même : Pour qui est-ce que je travaille, et pourquoi me priver moi-même de l’usage de mes biens ? C’est là encore une vanité et une affliction bien malheureuse. Il vaut donc mieux être deux ensemble que d’être seul ; car ils tirent de l’avantage de leur société. Si l’un tombe, l’autre le soutient. Malheur à l’homme seul ; car lorsqu’il sera tombé, il n’aura personne pour le relever. Si deux dorment ensemble, ils s’échauffent l’un l’autre ; mais comment un seul s’échauffera-t-il ? Si quelqu’un a de l’avantage sur l’un des deux, tous deux lui résistent : un triple cordons se rompt difficilement.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


哲学者の末期の沈黙 ― メーヌ・ド・ビラン『日記』最後の記事と死の前日の自筆証書遺言との間(1)

2024-10-19 18:49:43 | 哲学

 昨日の記事で紹介したジャン・スタロバンスキーの Le corps et ses raisons には « Silence du malade, discours du médecin » と題された8頁の短い論文が収められている。巻末の初出情報によると、初出時のタイトルは « Moreau de la Sarthe et Laennec au chevet de Maine de Biran »、 Nature, histoire, société. Essais en hommage à Jacques Roger(éd. par Claude Blanckaert, Jean-Louis Fischer et Roselyne Rey, Paris, Klincksieck, 1995)という記念論文集に収録されている。
 この記事のテーマは、メーヌ・ド・ビランが日記に最後に書き残した記事の内容とその後死に至るまでの約2ヶ月間の病状を詳細に綴った医師が見た「メーヌ・ド・ビラン氏」との本質的な乖離である。身体の衰弱に抗う力を失った魂の絶望的な苦悩を書き綴った「主観的な」最後の内省後の哲学者の「沈黙」は、当時の医学的所見および処方として妥当とみなしうる「客観的な」記録によってはまったく測深不可能である。例外的に詳細な所見はそのことを明瞭に示している。その最後の段落を引用しよう(スタロバンスキーは当時の綴りのままで引用しているが、現代表記に改めた)。

M. Maine de Biran conservait d’ailleurs toute la sérénité & tout l’usage, toute la force de son esprit. On aurait dit que son âme se rendait de jour en jour plus indépendante d’une organisation que l’on voyait s’affaiblir, se détruire, sans pouvoir opposer aucun obstacle à cette destruction qui fut consommée le 20 juillet 1824, sans effort, sans agonie, je dirai presque avec les apparences & le bienfait d’une mort subite.

 死の約2ヶ月間前、5月17日にビランはその苦悩を日記に綿々と綴っている(Maine de Biran, Journal, édition intégrale publiée par Henri Gouhier, Neuchâtel, La Baconnière, 3 vol., 1954-1957, vol. 2, p. 425-426)。スタロバンスキーが « pathétiques » と形容するその文章の全文(スタロバンスキーは上掲論文のなかでそのごく一部しか引用していない)を、今日から何回かに分けて読んでみよう。

Dans le pauvre état de santé, de faiblesse, de trouble physique et moral où je suis, je m’écrie sur ma croix : Miserere mei, domine, quoniuam infirmus sum. Lumbi mei repleti sunt illusionibus et non est sanitas in carne mea. Certainement la source de tant d’illusions malheureuses que ma raison ne peut vaincre est dans ces organes intérieurs (lumbi) qui s’affectent et se montent par des causes quelconques indépendantes de ma volonté, et leur produits spontanés ou les images qui prennent là leur source sont plus fortes que la raison même qui les reconnaît, les juge sans pouvoir les dissiper ; c’est dans de tels états qu’on sent le besoin d’une grâce supérieure. 

 イタリックの二つの文はラテン語訳旧約聖書詩篇からの引用である。前者が第6篇第2節「(エホバよ)われを憐れみたまへ、われ萎みおとろふるなり」、後者が第38篇第7節「わが腰はことごとく焼くるがごとく肉にまったきところなければなり」(岩波文庫『文語訳 旧約聖書 III』、2015年)。前者は4月25日の日記にも引用されている。
 私の意志とはまったく独立な諸原因によって引き起こされる内臓諸器官の不調に対して理性は為すすべがない。理性はそれらを認識することはできても、消散させることはできない。こんな状態にあって人は上からの恩寵の必要を感じる。
 これはビランの心底からの叫びであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


すべての人間存在にとって原初的な所与である「体感」と近代固有の倒錯的「自体愛」との境界線はどこに引かれるべきか

2024-10-18 15:06:08 | 読游摘録

 先日話題にした Georges Vigarello の Le sentiment de soi. Histoire de la perception du corps XVIe – XIXe に出てくる cénesthésie という概念についてスタロバンスキー の論文 « Le concept de cénesthésie et les idées neuropsychologiques de Moritz Sciff », Gesnerus, numéro spécial, Histoire de la nature et des sciences naturelles, vol. 34, 1977 が参照されている。すぐに読みたいと思ったのだが、同誌の電子版はないようで、ストラスブール国立大学図書館にでも出向いて閲覧するしかない。
 それは万聖節の休みまで待つとして、スタロバンスキーの他の著作にも cénesthésie への言及が見られるかも知れないと思い、電子書籍版を所有している Le corps et ses raisons, Éditions du Seuil, coll. « La Librairie du XXIe siècle », 2020 を検索してみたら十箇所以上ヒットしただけでなく、巻末の事項索引にもちゃんと立項してあった。しかし、この本で、cénesthésie  という概念が十九世紀に登場する経緯については、上掲の論文への参照が求められており、詳しいことはわからない。
 ただ、cénesthésie についての言及箇所がもっとも多い巻頭論文 « Médecins et philosophes à l’écoute du corps » の終わりの方で « où tracer la ligne de démarcation entre une cénesthésie, qui serait l’une des données primaires de toute existence humaine, et une écoute du corps, qui serait, elle, la conséquence, hypocondriaque ou perverse, d’un investissement narcissique ou auto-érotique ? » という問いは避けがたいとしているのが注目される。
 「(内的)体感」がすべての人間存在にとって原初的な所与であるのに対して、「身体の声を聴くこと」がナルシシズムや自体愛というヒポコンドリーや倒錯的傾向の結果でもありうるとき、両者の境界線はどこに引かれるべきか、という問いである。
 身体の声に過度の注意を払うことは、外界との生き生きとした接触を阻害し、いわば自己身体への「ひきこもり」を引き起こしかねない。言い換えれば、身体の声があまりにも大きく体内で反響しているとき、それは魂の衰弱の徴なのかも知れない、ということである。


SNSの倫理

2024-10-17 23:59:59 | 雑感

 教材探しという目的もあり、ネット上で閲覧可能なニュースを毎日読んでいますと、SNSによる被害に関する記事もよく目にします。
 今日、ある大学の女子学生が「なりすまし」被害に遭った記事を読みました。加害者はその女子学生があたかも自分で卑猥な言葉や画像を拡散しているかのような投稿を繰り返し、彼女の周囲の人たちがそれに気づき、彼女に知らせてくれました。幸いなことに、親しい友人は彼女が被害者であることをすぐにわかってくれ、あらぬ誹謗中傷を受けることはなかったようですが、SNSを通じて不特定多数の人たちにすでに拡散されてしまった投稿は回収のしようもありません。被害者は、一時は周囲の眼が気になり外出するのが怖くなってしまい、それでも授業には出席し続けましたが、あるとき外出中に過呼吸で動けなくなってしまい、近所の親族に迎えに来てもらい、遠くの両親も飛行機で駆けつけるということもありました。
 このような被害に遭うと、多くの場合、泣き寝入りに終わってしまいますが、彼女は法的手段に訴え、ついに加害者を突き止めました。それは彼女が高校時代に同級だった男子でした。その加害者は自分がやったと認め、謝罪の手紙を彼女に送り、なりすましアカウントは削除されました。しかし、それで終わりにせずに、彼女は損害賠償の訴えを起こすつもりだと記事は結ばれていました。
 きっとこれに類した被害は数え切れないほどあるのでしょう。私自身は被害に遭ったことも、もちろん加害者になったこともありませんが、他人の人生を破壊してしまうことだってありうるこのような犯罪行為に実に軽い気持ちで手を染める愚かな輩がこれからも後を絶たないであろうことを思うと暗い気持ちになります。
 それに、SNSに投稿した記事の内容・表現が、自分にはそのつもりがまったくなかったとしても、人を傷つけてしまうこともありえないことではありません。
 SNSの倫理は現代社会の重要な課題の一つですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「居場所がない若者たち」を生み出す日本社会の病巣に至るには

2024-10-16 23:59:59 | 講義の余白から

 修士の演習で読んでいる『ケアとは何か』がきっかけとなり、出席している学生たちの多くが「居場所」に関心を持つようになった。一つには、「居場所」の問題が日本社会の現状をよりよく知る一つの手掛かりになるからであり、一つには、自分たち自身の問題として「居場所」はあるのかという問いが彼らのなかに生まれているからである。さらには、そこからそもそも人にとって「居場所」とは何なのかという問いにまで彼らの問題意識が深められようとしていることが授業で彼らの意見を聴いているとわかる。
 実際、日本のメディアで「居場所」という言葉を見かけることはほんとうに多くなった。今日、この言葉が使われている朝日新聞の二つの記事をネットで見つけた。それも、特に検索をかけて探そうとしてではなく、たまたまトップページを見ていたら目に入った。
 一つはまさに今日付け(日本時間では17日)の記事で、タイトルは、「暴力、脱走、そして野宿「このままだと死ぬ」 16歳が生き直す家」
 「「いいんだよ。頼って。何度でも」 今年7月、宇都宮市中心部に、そんなメッセージを掲げたシェアハウス「ぼっけもんの家」ができた。入居対象は、家出や非行など様々な事情で帰る家や居場所がなくなった若者。この夏、3人が新生活を始めた。」
 こう書き出された記事には、共同生活を始めた3人のうちの一人、0歳から児童養護施設で育ち、後に別の施設に移ったが、それら施設や学校で数々の問題を起こし、上掲のシェアハウスに辿り着く前には帰る場所もなく野宿をしていた16歳の少年のこと、このシェアハウスが作られた経緯、その代表者の話などが紹介されている。
 その代表者小川氏は栃木県の委託を受け、児童福祉法に基づき設置される自立援助ホームも運営している。ただ、入居には児童相談所の決定が必要で時間を要するため、その日住むところがない子を支援することができないと「ぼっけもんの家」を作ったという。
 「ぼっけもん」とは鹿児島の方言で「大胆、勇敢な人」の意味がある。小川代表は「ここにたどり着く子はどこか傷ついていたり、重荷を背負い込んでいたりする。生きる希望を失わず、勇敢に立ち向かってほしいという願いを込めた」と話す。
この記事に限らず、「居場所」が主題となっている記事では、「居場所がない」あるいはそれに近似した表現が「若者たち」と結びついて出てくる。そして、それらの若者たちのための居場所づくりの取り組みやそれをめぐる諸課題が話題となっている記事が多い。
 「こども家庭庁は、親の虐待などで家庭に居場所がないこども・若者の一時避難先として「こども若者シェルター」の整備を進める。全国の自治体がNPOに委託する形を想定し、児童養護施設や一時保護施設への入所を望まない子どもの受け皿にするという。6月に検討会を立ち上げており、今年度中に運用ガイドラインの策定を目指す。」
 こうこの記事は結ばれている。もちろん行政のこうした取り組みは必要であり、緊急性も高いことはよくわかる。SOSをさまざまな仕方で発信している若者たちは実際少なくない。しかし、少なからぬ若者たちが社会のなかで居場所を失い、ここまで追い詰められているのは、日本社会のもっと深いところに深刻な病巣があるからにほかならない。
 演習を通じて、その病巣に到達するまで問題意識を学生たちとともにあと4ヶ月かけて深めていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


NewJeans の « Supernatural » を日本語聴解教材として使ってみると

2024-10-15 20:45:03 | 講義の余白から

 日本学科学部三年の「日本思想史」にしても応用言語学科英語・日本語併修コース学部一年の「日本文明入門」にしても、私が得意とするお固いお話が続いてしまうと、学生たちは、ごく一部の意識高い系の学生を除いて、当然のことながら、すっかり飽きてしまうわけです。もろに彼らの顔に出ますから、瞬時にわかります。
 そこで、いわゆる教育的配慮から、授業内容に工夫が求められるわけです。って、上から強制されているわけではありませんが、自分でそう思うわけです。
 この二十年余り、そのような工夫を私なりにさまざまに凝らしてまいりましたが、今年度の「新機軸」として、K‐pop を授業の「箸休め」として導入することにしました。というのも、K‐pop の人気は、日本学科の学生たちの間でさえ、J‐pop のそれを上回っていることが多いので、学生たちの関心を惹きやすいからです。
 K‐pop は最初から世界戦略を目指しているので曲作りにJ‐pop よりも「普遍性」がある一方、他方では日本市場への進出を目論んで日本向け特化した発信も怠っていません。
 NewJeans が今年6月にリリースしたシングル Supernatural は日本語聴解教材として初歩段階にとって手頃です。この曲の歌詞には、5つの日本語表現が織り込まれていますが、それが英語と韓国語の歌詞と見事に融合しているので、日本語初心者にはよほどよく注意して聴かないとそれらを識別できません。
 そこで学生たちにこの曲のミュージク・ビデオを観せながら、その5つの日本語表現を識別させるのです。すでにこの曲を知っている学生たちには無意味な練習のですが、それでもまあ「遊び」としては彼らにとって楽しいわけです。
 まだこの曲をお聴きになっていらっしゃらない方、こちらのリンクで視聴できますから、その5つの表現すべてを一回聴いただけで聴き取れるかどうか、お試しになってみてはいかがでしょうか。彼女たちの発音は文句なしですから、発音の悪さで聴き取れないということはありません。英語と韓国語の歌詞とのあまりにも自然な連続性が聴き取りを難しくしているのです。
 このような「多言語融合」時代が来るなんて、日本に居た頃には想像できませんでした。暗黒の未来しか見えない悲観論に深く染められた私の陽のあたらない心も、この曲を視聴するとき、少しだけ明るくなります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『光る君へ』第39回 ― 惟規最期

2024-10-14 13:20:24 | 雑感

 昨日の『光る君へ』第39回で惟規の最期のシーンが出てきました。やはりそれとの関係で拙ブログの6月26日の記事「紫式部の弟惟規の最期の姿が『光る君へ』に取り入れられるとすれば」へのアクセスが急増していたのですね。この8日間でこの記事だけで20000を超えるアクセスがあり、このテーマについての視聴者の関心の高さを知る機会となりました。
 『今昔物語集』の描写に比べると、ドラマでのシーンはわりとあっさりとしていて、あっけなくも感じられましたが、惟規が死の間際に読んだ和歌の最後の文字は書ききれず息絶えたところはそのまま取り入れられていました。その後のシーンでその和歌が画面に映し出されたときには、その最後の文字「ふ」が書き加えられていました。この辺は出典に忠実でした。惟規を演じた高杉真宙さん、頼りないが憎めない弟役、好演でした。
 惟規の死の知らせを受けて、京の自宅で紫式部が娘賢子の胸で号泣するシーンは、これをきっかけとしてそれまでぎくしゃくしていた母娘関係が改善されていく予兆なのでしょうか。
 この年、つまり寛弘8年(1011)7月25日(旧暦では6月22日)には一条天皇が崩御します。『光る君へ』第39回でもその体調を懸念させるシーンがありました。惟規の死は同年秋ですから、史実に忠実であろうとすると、崩御後に惟規の最期を持ってこなくてはなりません。でも、それでは印象が霞んでしまいかねません。おそらくそのような演出上の理由で、崩御前にもってきたのだろうと勝手に推測しております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


自己感は身体の「全体感」という原初的な次元に基礎づけられている

2024-10-13 17:52:33 | 哲学

 生理学および心理の分野で「体感:快感,不快感を基本とする,漠然とした全身の感覚」を指す術語としてのフランス語 cénesthésie は十九世紀前半に登場する。しかし、それ以前にメーヌ・ド・ビランが cœnesthèse という語を用いて、快苦を感じる原初的な身体の全体感覚を主題化している。
 ビランはこの概念の着想をドイツの生理学者・解剖学者・精神科医のヨハン・クリスチャン・ライル(1759‐1813)が提案した coenaesthesis という学術ラテン語から得ている(Nouvelles considérations sur les rapports du physique et du moral de l’homme, manuscrit 1812, édité par Bernard Baertchi, in François Azouvi, Maine de Biran, Œuvres, tome IV, p. 125)。
 ビランは実質的に cénesthésie をどのように捉えたか。Georges Vigarelle, Le sentiment de soi. Histoire de la Perception du corps XVIe-XXe siècle, Editions du Seuil, coll. « Points Histoire », 2016 (première édition, 2014) を参照しながら要点を私なりにまとめれば以下のようになる。
 ビランはライルのいう身体の全体感を « sentiment d’ensemble, mode composé de toutes les impressions vitales inhérentes à chaque partie de l’organisation » (Nouvelles considérations sur les rapports…, op. cit., p. 125) だと規定している。それは、身体という一つの有機体の各部分に本来的に内属する生的印象すべてからなる様態である。
 この「全体感」こそ、生きている〈からだ〉のもっとも原初的な次元の直接的な把握であるとすることで、身体についての新たな探究の次元が開かれる。
 そこでの探究の対象になるのは、契機的に連続する諸感覚の束ではないし、原初の努力そのものでもなく、「全体」として感じられている〈からだ〉であり、それは、漠然としており明瞭に分節されていないが、諸感覚の混沌とした状態なのではなく、むしろそこからそれらの分節化された諸感覚が可能になるより原初的な身体の次元である。
 ライルは胎児においてすでにこの全体感は発生しているとする。
 « Sans elle, [sans ce sens vital intérieur, tout intime,] nous n’aurions aucune idée de l’application [ni de l’intensité variable] de nos forces physiques, dans la respiration, l’excrétion, la contraction musculaire, etc. » (Maine de Biran, op. cit., p. 126)
 この全体感は生理的でもあり心理的でもある。というよりも、そのような分岐に先立つ感覚であり、この身体の全体感の連続性がなんらかの仕方で断ち切られると自己の連続性が損なわれる。
 つまり、自己感はこの身体の全体感に基礎づけられている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


内側から感じられている〈からだ〉の居場所で自己感は育まれる

2024-10-12 08:56:57 | 読游摘録

 昨日の記事の終わりで予告したように、まず『ケアとは何か』のなかから「自己感」という言葉使われている表現及び文章を拾い上げてみる。

自己感が失われて孤独のうちに閉じ込められる苦痛のモード

〈からだ〉の緊張をゼロにすることが自己感の回復につながるという考え方

〈からだ〉の感覚にもとづく自己感

社会のなかで生きる私たちにとって、一対一の人間関係でつくられる自己感はごく一部であり、そのほとんどは複数の人と共に居る環境で生まれる。

居場所は、自己感が育まれる場所でもある。周囲の人が自分のことを深く知っている場合も知らない場合もあるだろうが、見守りの連続性とあるがままの存在の肯定がそこにはある。

仲間が見守るなかで、語りながらたどっていく自己の歴史の再認識というプロセスが、新たな自己感を生み出す。

ウィニコットは、この「誰かの前で独りになる力」が、自己感の形成にとって非常に大事なステップになると論じた。

 昨日の記事のなかの言及箇所および上掲の引用箇所での「自己感」の用例から帰納的にまず導けることは、自己感は自己一人では形成されえない、ということである。自分独りで自己感を形成することはできない。自己感は他者との共同性を前提とする。孤独あるいは孤立は自己感を喪失した状態である。
 自己感は複数の他者との関係性のなかで形成される。しかし、それは、自己のあり方はつねに他者たちによって規定あるいは制約されているということではない。むしろ他者から見守られている場所に包摂されてこそ、人は自己の〈個〉としての存在を肯定することができ、創造性を発揮することができる。
 自己感は〈からだ〉と不可分である。この〈からだ〉も同書のキーワードの一つだが、〈からだ〉とは、外から観察された身体ではなく、本人に内側から感じられている身体のことで、つねに〈こころ〉と混じり合い、両者の境界は曖昧である。
 この〈からだ〉は、それ自体で実体として存在するものではなく、それが「居る」あるいは「居られる」場所においてはじめて安定的に形成されうる。
 この〈からだ〉において感じられている感情・情念・情動が自己感の内実を成す。これらの内実がそれとしてまるごと生きられかつ表現されうるとき(つまり見守られ表現できる場所があるとき)、自己感は安定的である。ところが、なんらかの内的あるいは外的要因によってそれらが抑圧・否定・無視され表現の場所を失うとき、自己感は不安定化する。表現の場所(つまり居場所)の喪失が決定的となれば自己感は崩壊する。
 端的に言えば、自己感とは、私たちが内側から感じている〈からだ〉のことだ。
 この〈からだ〉についての理解を深めるために、明日の記事では、『ケアとは何か』には登場しない概念 cénesthésie を補助線として導入する。