「ふと思い出した嫌な記憶。
あれは小学校の学芸会のことだ。
おおよそ人気とは無縁だったぼくが、たぶん誰も引受け手がなかったせいだろう、小さな役を一つまわしてもらえたのである。
「トンマ」という名の馬の役だったが、それでもぼくは興奮のあまりはしゃぎまわった記憶がある。
ところがいざ舞台に上がってみると、短いほんの一か所だけのせりふが、なぜかどうしても出て来てくれないのだ。
あきらめて退場しかけると、馬の飼い主役だった同級生が腹立ちのあまり、ぼくを蹴飛ばした。
ぼくも負けずに腹を立て、蹴り返してやると、相手は床に頭を打ち付けて気を失った。
その後、劇がどんなふうに中断したのかは、まるで覚えていない。
ただぼくがひどい近視眼になり、けちな親から眼鏡をせしめたのは、それから間もなくのことだった。
暗いところで、わざわざ活字の小さな本や雑誌を、顔すれすれに寄せて読みふけったせいである。
見ることからも、見られることからも、ただ逃げ出したかったのだ。」
(安部公房 「箱男」より)
あれは小学校の学芸会のことだ。
おおよそ人気とは無縁だったぼくが、たぶん誰も引受け手がなかったせいだろう、小さな役を一つまわしてもらえたのである。
「トンマ」という名の馬の役だったが、それでもぼくは興奮のあまりはしゃぎまわった記憶がある。
ところがいざ舞台に上がってみると、短いほんの一か所だけのせりふが、なぜかどうしても出て来てくれないのだ。
あきらめて退場しかけると、馬の飼い主役だった同級生が腹立ちのあまり、ぼくを蹴飛ばした。
ぼくも負けずに腹を立て、蹴り返してやると、相手は床に頭を打ち付けて気を失った。
その後、劇がどんなふうに中断したのかは、まるで覚えていない。
ただぼくがひどい近視眼になり、けちな親から眼鏡をせしめたのは、それから間もなくのことだった。
暗いところで、わざわざ活字の小さな本や雑誌を、顔すれすれに寄せて読みふけったせいである。
見ることからも、見られることからも、ただ逃げ出したかったのだ。」
(安部公房 「箱男」より)