こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2016年3月15日 火曜日・深夜 Beatniks ”Exitentialism”

2016-03-16 01:20:00 | 音楽帳

2016年3月15日 火曜日 晴れ 4℃/14℃
ヘルニアからくる眼や頭の痛み、しびれが強いここ数週。
三寒四温、春の芽が吹き出したというのに、冬に逆戻り。
つめたい雨や不安定な陽気が続き、調子を崩す。

夜、ふだん眠るより前の時間に明かりを消し、横になる。
珍しい時間。横になると、首への負担が軽くなる。身動きできない。”天上”を視て、入院中のお袋やアンビエントを発見したイーノのことを想う。

ラジオが聴こえるか聴こえないかのレベルで鳴る。
ヒーターのあったかい色味が、ぼんやり空間を満たす。
その明かりの下で、手が届く位置にあった雑誌ミュージックマガジンをめくり読む。こころが落ち着く。

YMOとムーンライダーズのエッセンスの合体ブレンドの奇妙さ。
北中正和さんが書いたビートニクス「出口主義」。

ヨーロッパ的な感触、ルイス・ブニュエルの映像。
そこにイーグルス「ホテル・カリフォルニア」が重なり、同時にYMOの温泉マークが亡霊のように浮かび上がる。
そんな北中さんが想ったイメージは、当人(幸宏・慶一両氏)たちも思っていたはず。
当初あそびで始めた目的を持たない2人の行為は、実験過程で奇妙な音像を描き出していく。

意識外の領域に踏み出していくことでは、イーノとフリップ、イーノとD・バーンが産み出した不可解な狭間の時空の響きに似ている。

音楽というものも、最終的に商品・アルバムとして世界に提出する段階で「まとめ」をしてしまい、微妙なニュアンスを殺してしまうことが多い。
だが、別に流通に乗せるために世界に提出する必要もなく、売れる必要もない。

形になるかならないかのレベルで漂っている「なにか」。
宙を舞うそれを何とか瞬時手に掴まえ、形にしたい。
そんなものが、70~80年代へ向けたインディーズの思想だったはず。

あんな未知の「何か」を観たり聴いたりしたい。
そんな想いは、今も可能。
それは90年代以降で言えば、例えばCDショップで出会えたトータス、レディオヘッド等々への喜びでもある。

■Beatniks 「詩人の血(Le Sang du Poete)1981■

ぎちぎちの監獄が完成してしまった2016年東京の片隅で、黙ってシステムに抵抗をしながら夜闇を過ごす。






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