砂原さん「Liminal」を通して何回も聴く。
ネット上で各曲聴いていたときと違う聴こえ方。
作品発表当時のインタビューを再び読み、「Liminal」の語源より「リミナリティ」について考えたりする。
*リミナリティ:境界状態(人が社会から逸脱している状態)。人々が、所属する社会を移動する途中、境目。
日常生活の規範から逸脱し,境界状態にある人間の不確定な状況。
例として道化・トリックスター・シャーマン・修行者などの位置・状況。
それを調べていくと、阿部謹也先生の名前がちらほらする。シンクロする。
たまたま最近読みだした本は阿部先生の「世間とは何か」。1月親の見舞いの合間、神保町の古本屋で偶然出会ったもの。1995年の著書。焼けた本の姿と匂い。まだ読みきれていない。
世間さま、とよく馬鹿にした言い方もするが、いまやそれがこのクニ様のご中心であられる。くわばらくわばら。。。そんなことが適当に脳に浮遊すると、街をふらつく折・古本屋の寒空・100円均一処分本に見つけたりする。不思議なもの。
同時並行でパラパラめくる本が、寝るそばに積んである。
そういった本が、ぐるぐる回って止まらない雑念循環に歯止めをかけるのか?あるいは混乱を促進させるのか?
まあ、そんな大して難しいことより、生きるヒントが一行でもあれば、と思う。
池田清彦さんの「やがて消えゆく我が身なら」、みうらさんの「さよならわたし」、中井久夫さんの「世に棲む患者」、あるいは養老孟司さんの本などなど。。。適当に積み上がる。
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「Liminal」をずーっと聴く中、入れ替えされる安価mp3プレイヤー内に教授(坂本龍一)の曲がありて、これまた不可思議な視点を見つける。
「Liminal」(2011)を「Love Beat」(2001)の延長線上でしか聴く発想しかなかったが、教授の「B-2UNIT」と交互に聴くうち、とんでもなくオーヴァーラップすることを発見する。点と点が線になる。
教授も砂原さんもココに至る経緯・経路は違うが、カチッとした予定調和世界への違和の表明という点は同様。「B-2UNIT」は、形式に従った資本主義音楽にうんざりするとき、原点確認も含め聴きたくなる。
「B-2UNIT」後、ポップスのフィールドに接近していく教授。
砂原さんはその逆の流れ。意識/無意識を超えて”今”を音に落としたときに、彼が何の作為もなくB-2UNITに酷似した音を鳴らしたことがとても興味深い。
■坂本龍一 「E-3A」1980■
15日深夜、痛みの果てで結局イーノ&バッドの「鏡面界」という処方箋に辿り付いた。あるいは、元々録音機として買ったmp3プレイヤーで、フィールドレコーディングした野外音を聴いて痛みを鎮めていた。