こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2013年1月4日 金曜日 「ミック・カーンの三回忌」

2013-01-04 08:49:58 | 音楽帳
今日で、ミック・カーンが亡くなって丸2年が経った。今一度、稀有なるエイリアンの魂に合掌する。

彼の音楽から、今朝はデヴィッド・シルヴィアンとの共作「When Love Walks In」を聴く。

■Mick Karn & David Sylvian 「When Love Walks In」1987■

これまた1987年の作品で、リアルタイムでは聴けなかったセカンドアルバム「Dreams of Reason Produce Monsters」の1曲。
じぶんが、このアルバムをゲットしたのは、1991年4月からの大阪生活にて。
1991~1993年の間のいつか。毎週末になると自転車で通っていた、古びた梅田駅地下街にあった中古レコード屋さん。

店の正面に立つと、まるで力士のような風体でヒゲを蓄えたふとっちょさんが2人、こちらをムスーッとした半開きの目で睨んでいる。(今だから言えるのは「パパイヤ鈴木」そっくりだった。)
そんな中、よくエサ箱を漁りながら、めっけもんが無い日は、立ち去る際の気まずさがあったものだった。毎週通う中で、ミック・カーンの横顔がジャケットの輸入盤LPレコードを発見した。

1987年とあるが、このようなアルバムが存在したことすら知らなかった。
ジャケットに漂う「予感」めいた暗さ、それはジャパンの4枚目「孤独な影」という最高傑作を思わせる空気。
「モンスター」という言葉が、アルバムタイトルの一部になっているのも後押しして購入した。
2人の力士は、いざ買うときになるといきなり笑顔とオカマとも錯覚する優しい対応になる。この変化を当時ひそかに楽しんでいた。今の自分だったら記念写真を一緒に撮ったであろう。

アルバム全体は、期待通りの暗さに始まり名盤の予感。A面1曲目「ファースト・インプレッション」はギラついた漆黒の闇の中から、ゆるやかにミック・カーンのフレットレスベースが化け物のように立ち現れる。

1枚目の「こころのスケッチ」にはポップさがあったが、この2枚目はもっともっと期待していたミック・カーンのエイリアンばりの異世界に没入。
中近東や無国籍の匂いが強い名曲ぞろい。その中でアクセントとなっているのが、デヴィッド・シルヴィアンとの共演の2曲「Buoy」「When Love Walks In」。

ジャパンは、この世で一番美しい男=デヴィッド・シルヴィアンが中核であったが、主張力強い不安定感あるフレットレスベースを弾くミック・カーンの存在を無視する訳には行かなかった。
「孤独の影」では、もはやジャパン=デヴィッド・シルヴィアンのバンドでは無かった。
4人(+このアルバムを最後に脱退したギタリスト、ロブ・ディーン)がそれぞれのパーツにおいて最高の演奏をしながら、有機的に結びついた頂点とも言える作品。
実力を蓄えた4人の最後となるのが予見されたラストアルバム「錻力の太鼓」。
裏ジャケットで4人は対等に横並びで、椅子に座っているモノクロームのショット。
それぞれの夢や道が開かれたのを明示するこの写真を契機に、ジャパンは1982年解散する。

デヴィッド・シルヴィアンとミック・カーンが対立する構図の中で、1987年のミックのアルバムにシルヴィアンが参加していたのを、実に意外な事とじぶんは感じていた。
思えば、お互い共に、その才能を認め合っているからこそ対立していたのだが。

90年代に「実質6枚目のジャパンのオリジナルアルバム」と言われた、藤原新也の写真がジャケットの「レイン・トゥリー・クロー」もとても素晴らしかったが、じぶんの中でこれはジャパンでは無く・やはり別の有機体だった。
一過性に終わったレイン・トゥリー・クローの面々は、それぞれの持ち場に戻るが、ミック・カーンは、スティーヴ・ジャンスン、リチャード・バルビエリと3人でよくセッションを続けていた。

2年前のミック・カーンの死は、正月早々に驚かされた。
その際にもウィキペディアを見て微笑んだのが、このくだりだった。
「猫好きで、嫌いだと思う猫にはいまだかつて会ったことがないという。以前Kashmirという名のメス猫を飼っていた。」
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2013年1月3日 木曜日 千住界隈の旅 - ネコが棲む路地 -

2013-01-03 14:14:06 | 写真日和
昨日は、たくさんのネコに出会った。今日は、そのとある路地にて。

歩く道から横に伸びる路地を見ると、ネコを発見。

●写真を見ながらの今日の音楽

■坂本龍一 「プロトタイプA」1987■
1986年に発狂したじぶんは、1987年以降、幻覚肥大させぬよう音楽へ距離を置いていた。
それゆえ、この曲もリアルタイムには聴けなかった。アニメ映画「オネアミスの翼」のサウンドトラックに入る、スケッチ段階(絵でいうエスキース)のラフ感が素晴らしい1曲。教授らしいロマンティシズムが漂うメロディ。
手を入れれば入れるほど・考えれば考えるほど、駄目になっていく当時の教授の音楽の創り方。
そういった意味合いではないのだが、こうしてスケッチ段階ですくい取った音の方に、本来の微妙な繊細さとニュアンスが現れる。



じりじりとにじり寄ると、親分とおぼしき大きなネコににらまれる。
ここで、逃げられるか・認めてもらえるかの間で、信号を送りながら距離を縮めていく。

カラダを低くして、じょじょに近づいていく。

すると、親分が向かってきた。

撫でさせてもらう。毛がふかふかの親分は、アゴ・背中を撫でるとゴロンとじぶんに身を任せてきた。
どんどんどんどんネコは陰から現れて、結果5匹が棲んでいることを知る。

1袋カリカリを3箇所に置く。





中でも一番小さいチビ太くんがやんちゃ。



長いこと居るうちに、チビ太くんとの距離も縮まり「ニャア」と鳴いてくれた。

後ろ髪を引かれながらも、彼らにバイバイをして、ふたたび旅に戻る。
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2013年1月3日 木曜日 New Order 「Your Silent Face」'83

2013-01-03 07:54:55 | 音楽帳

6:50ごろ。目覚める。
空を見に行くと、遠くの夜明けはオレンジ色に輝いている。
眺めているうち、音が脳内で流れ出す。


■New Order 「Your Silent Face」1983■

実は、ア・フロック・オブ・シーガルズの「スペース・エイジ・ラヴ・ソング」も夜明けのウタとして脳内に流れたが、今日はニュー・オーダーのセカンドアルバム「権力の美学」に入った、想い出深い出会いをした「ユア・サイレント・フェイス」を掛ける。

2曲ともに刻む機械のアタック音は強いが、そんなことよりも実に映像的であり、遠くから朝日が昇るたゆたう時を思わせる共に夜明けの名曲である。
ときに、あまりに美し過ぎる空を見ると、真逆の感情として、何かが起きるのではないかという恐れにも包まれる。



もう一方の空では、雲が横に流れている。まるで地震雲のように、ある一線で青空と雲が仕切られている。
いかようにも七変化する空の姿は、未だじぶんの生きる上での友、としていつもそばに居る。

昨日は、心身ナマリのようになりつつある状況を打破するために、ハブ噛み師匠にコンタクト。
2人でお昼に待ち合わせ。初詣・正月・三が日・人混みの一切を無視して、千住界隈の旅に出る。
16400歩。写真枚数800枚近い旅となった。
全然整理が付きようもないので、とりあえず1枚。
「ユア・サイレント・フェイス」。日なたでまどろむクロネコさんの穏やかな顔を。
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2013年1月1日 火曜日 インテリア 「ホット・ビーチ」'82

2013-01-01 22:52:42 | クロスオーバーイレブン

実家に集合。お袋さんから、ボケ老爺が「正月を迎えるというのに、お供えにコチャコの遺骨があるのは解せん。」と血も涙も無い事を言っていたのを聞いてはいた。
すこし、実家への足が重かったのは事実である。
「そういうことを言うならば、まみちゃんもコチャコの遺骨も全部、じぶんが家に持ち帰り祭壇を作る。」と言っていた。

耳が遠くなった老爺にも、一部の情けはあったようで、実家に行くと「今年の正月は、喪中とすることにした。」とお袋さんから聞く。
すでに兄夫婦は来ていた。
お袋さんは「本人が聞いたら、喜ぶよ。」と老爺に言っていたらしい。
確かに門松も祝いに関するあらゆる備えが、今年は無かった。
行って、コチャコの写真がたくさん飾られたお供えに、お線香をまずは上げた。

帰り道、兄が言っていた。「いまさらだが、あれだけ愛情表現の仕方を知らない不具な不幸なヒトは居ない。」
まあ、そのような中を残り3人は知りつつ、数十年くぐり抜けてきたのだから。
親父を抜いた3人の中では、融和が保たれていれば、じぶんはそれで良い。

***

実家に行って兄夫婦と途中で別れて、独り家に戻る。何か空白感がある。
よくあることではあるのだが。帰り道の電車で、兄夫婦にコチャコを看取った最期を、じぶんのクチから話したことが、記憶をよみがえらせたせいだろう。不覚にも、泣きそうになってしまった。
独りで産まれ・独りで死に向き合う生き物たちに比べ、なんとじぶんがヘタレなことだろうか。

***

そんなヒリヒリした今の自分の気分と、コチャコへの鎮魂を同時かなえる音楽を。。。とまさぐる。
大量のLPレコードは、もはやどこに何があるのかは分からない。
しばし、探すが見つからないので、ネットでいただいた画像でジャケットを掲載する。

1982年春に、実質YMO解散/分裂をあらわにした細野さんのYENレーベル設立とLDKスタジオでのレコーディング開始。
そのYENレーベルから、1982年10月21日発表された、その名もインテリアというユニットのアルバム。
このアルバムから、あたたかみのある「ホット・ビーチ」を今夜は聴きたい。

■Interior 「Hot Beach」1982■

誰が何と言おうと、コチャコならびに愛したネコたちを絶対にじぶんは守る。
だから、安心して子守唄を聴いて安らかに眠っていていいんだよ。

***

後に、NHK-FM「ふたりの部屋」で、新井素子さんの小説「二分割幽霊綺譚」がラジオドラマ化された(超名作)なかでも、このインテリアの「フラミンゴ」は、絶妙な使い方をされていた。
「フラミンゴ」は、モロ、ブライアン・イーノの影響がそのまま出た曲だったが、そもそも、それをプロデュースした細野さん自体がイーノの影響下で、YENからこの手のアーティストを輩出していきたいと思っていた。
「フラミンゴ」は1982年12月に、クロスオーバーイレブンでエアチェックしたテープが未だに手元にある。
「ホット・ビーチ」もよいが「フラミンゴ」も、日本のミュージシャンが(現代音楽ではなく)環境音楽・アンビエントに踏み込んだ名曲だと、じぶんは思っている。

YMOが散会し、年を明けた1984年のお正月。
美しかった西田珠美さんがナレーターをしていた、FM東京の22時からの番組「サントリー・サウンド・マーケット」に、細野晴臣さんがゲストに出演。(別の日には、ピーター・バラカンさんが出演。)
「今後の音楽の流れは?」ということをテーマにした週だった。
細野さんは、そこで、音楽はまだ水面下(マイナー)だけれども、(イーノが垂らした波紋が広がるように・それ以降)次第に静寂にむけた静かなうねりが出来つつある。そんなことを話していた記憶がある。
この日「ホット・ビーチ」と共に、ロスト・ジョッキーなどを細野さんは選曲した。
表面的には、バシバシの打ち込みサウンドがOTTに向かう一方で、都市生活に疲弊した人々の寄る辺となるセラピー音楽が、ひそやかに産まれていった。

ユニット「インテリア」は、この後、ウィンダム・ヒル・レーベルに引っ張られて移籍し、「インテリアズ」と呼称を変更し、アルバムを世界発売させる。
1984年の段階では、その前夜であった。
今でも、さぶい部屋で、「サウンド・マーケット」をエアチェックしていたのを思い出す。
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2013年1月1日 火曜日 元旦の朝

2013-01-01 11:49:40 | 雑記帳
10時半に身を起こす。トイレには行きたかったのだが、昨夜勢いに乗って呑んでしまったビール3本が悪く残り、だるくて起きられなかった。
「もう、やはり、お酒なんか呑むまい。」
初日から反省に始まる。
お湯をコンロで沸かして、新しいお茶っ葉で、濃い緑茶を飲む。

どうやら世界は滅亡していない模様である。あれだけぐずついた天気が続いた数日は消えて、雲がカケラもない、まるでポスターカラーで塗ったような青空。

ぼんやりしながらも、焦る心。焦りの元凶は、今日実家に一同集合なのだが、その体制にはなっていないゆえと思われる。
まあ、休みにまで焦る必要はあるまい。
ぼんやりする中でも、カラダの内と外を調整すべく、セラピーとしてBVDUBを掛ける。

■Bvdub 「There Was Nothing But Beauty In My Heart」■


***

昨夜は、うれしいたくさんのお便りへの返事を書いていたら23:30になった。
唯一「ゆく年 くる年」だけを見るために、電子時計で時刻が秒単位で進むのを眺めていた。
23時44分44秒。はいっ、スイッチ・オン。
しかし、今年もしくじった。残り16秒で、意味無き紅白歌合戦「蛍の光」の音・ジャリタレのガッツポーズ・「良いお年を」と言われる覚えの無いコトバを掛けられ、最後に花吹雪の爆弾を浴びてしまう。

誰もが思っているだろうが「ゆく年 くる年」の前1分くらいに告知や番組紹介で、間を取ってもらいたいものである。

だが、今回の「ゆく年 くる年」には、個人的に恣意的なあざとさを感じてしまい、0:00に切る。
東北の復興への祈り、そこから、最後清水寺に移り、馬鹿なコドモが騒ぎピースをする場面、そして、0:00になった途端に「あけましておめでとうございます」。
いかにも現代のテレビ的で、少しも安らがなかった。カンペキなアウトである。

***


雑用を済ませ、ハロゲンヒーターを付けて横になり、撮り溜めた大竹伸朗さんのビデオを見る。
なんだかようわからないものに向けて、あらがい続ける大竹伸朗の生きる旅に、改めて触発される。
「これは酒無しでは見られんな」とごそごそ缶ビールを持ってきて、暗闇の中で、深夜4時近くまで見てしまう。
今朝へろへろで起きて思う。意味があろうが無かろうが、ひたすら自分のもやもやした何がしかへと向けて、やり続けること。そこにしか突破口は無い。

しかし、そんな自分には体力も精神力も明らかに不足している。
仕事もアートも、あるいは何かでも、最近分かり出したのは、そこで残る者は誰か?と言えば、壊れない体力と精神力を持つ者なのだろう、ということ。

仕事で言えば、もはや証人たる周囲が脱落した中「これはオレがやったんだ」と言い、過去の遺産でメシを喰う者。
アーチストは、そんな下界とは異なるものの、生きている限り何かを作り続けなければならない運命。(たとえ同じ曲でも、異なるアプローチや磨きを掛けたり)
そういう意味では、人間界も弱肉強食。
そんな中で、自分は生きていけるのか?そういう思いのよぎる元旦の朝である。
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