日本人の多くが農山村に住んで野良仕事や山仕事をして暮らしていた時代の「人間-自然」という関係は、日常生活の中で一体となった存在で当たり前なものとして認識され、少なくとも明治以前の日本人には自然を自分自身と分けて考える存在ではなかったと言われています。
このようなことから、古の日本には英語で言う「nature=自然」という言葉は存在しませんでした。自然(じねん)という言葉はありましたが「強いて勉めざること」が当時の意味で、「自然=nature」という言葉が出現したのは、江戸時代の中期になって、オランダとの交易が始まり、稲村三伯という蘭学者が「波留麻和解(ハルマワゲ)」と言う蘭語の辞典を作り始めたのだそうですが、natuur(英語のnature)の和訳に苦慮して、「自然」の文字を当てたのが最初だと言われています。
自然の代表格である森林や草原からは「山仕事」や「遊び仕事」を通して、住む家の建築材料や燃料としての薪や炭、農業用の肥料や家畜の飼料、薬草、山菜やきのこといった食材など多くの収穫のみならず精神的な喜びや楽しみまでも授かっていましたし、現在伝えられている地域の伝統文化の多くは四季の変化のすばらしさを感じ、自然の恩恵を受けて生活してきた私たち日本人の祖先が生み出してきたものなのです。
それが明治以降、技術面や効率のみが発達し自然を征服することが基本の西欧の科学思想が津波のようにやってきて、近代化や経済発展には大いに役立ったのでしょうが、一方で日本人と自然との密接な関係や秩序を根底から壊し始めてしまったのです。
特に、現代になってからは、多くの人工物に囲まれて自然との交流が無い生活を送る人々も増えてきました。一日中、土に触ることもなく、生命を持った生き物を見ることもなく、四季の変化を感じることも少なくなってしまうと、自然の見極め方やマナーも身に付かず、自然に接する事によって育まれる公共性や協調性、生き物に対する愛など人間本来の資質も失われてしまうことになります。
このようなことへの危機感からか、本能的になのか、自然とのふれあいを渇望する人々が増えてきたような気がしますが、その入り方が分からなかったり戸惑ったりしている状況もみられます。
まずは、自然と親しみ、理解し、愛するために自然観察会に参加してみてはいかがでしょうか。観察会では草本や樹木、野鳥、昆虫や水生生物、地質など、その道の専門家に分かりやすく説明してもらえます。
このようなことから、古の日本には英語で言う「nature=自然」という言葉は存在しませんでした。自然(じねん)という言葉はありましたが「強いて勉めざること」が当時の意味で、「自然=nature」という言葉が出現したのは、江戸時代の中期になって、オランダとの交易が始まり、稲村三伯という蘭学者が「波留麻和解(ハルマワゲ)」と言う蘭語の辞典を作り始めたのだそうですが、natuur(英語のnature)の和訳に苦慮して、「自然」の文字を当てたのが最初だと言われています。
自然の代表格である森林や草原からは「山仕事」や「遊び仕事」を通して、住む家の建築材料や燃料としての薪や炭、農業用の肥料や家畜の飼料、薬草、山菜やきのこといった食材など多くの収穫のみならず精神的な喜びや楽しみまでも授かっていましたし、現在伝えられている地域の伝統文化の多くは四季の変化のすばらしさを感じ、自然の恩恵を受けて生活してきた私たち日本人の祖先が生み出してきたものなのです。
それが明治以降、技術面や効率のみが発達し自然を征服することが基本の西欧の科学思想が津波のようにやってきて、近代化や経済発展には大いに役立ったのでしょうが、一方で日本人と自然との密接な関係や秩序を根底から壊し始めてしまったのです。
特に、現代になってからは、多くの人工物に囲まれて自然との交流が無い生活を送る人々も増えてきました。一日中、土に触ることもなく、生命を持った生き物を見ることもなく、四季の変化を感じることも少なくなってしまうと、自然の見極め方やマナーも身に付かず、自然に接する事によって育まれる公共性や協調性、生き物に対する愛など人間本来の資質も失われてしまうことになります。
このようなことへの危機感からか、本能的になのか、自然とのふれあいを渇望する人々が増えてきたような気がしますが、その入り方が分からなかったり戸惑ったりしている状況もみられます。
まずは、自然と親しみ、理解し、愛するために自然観察会に参加してみてはいかがでしょうか。観察会では草本や樹木、野鳥、昆虫や水生生物、地質など、その道の専門家に分かりやすく説明してもらえます。