国語屋稼業の戯言

国語の記事、多数あり。国語屋を営むこと三〇余年。趣味記事(手品)多し。

論述問題演習

2018-10-14 11:46:28 | 国語
以前の記事の続きみたいなもんです。



自分の中の語彙力によって使える表現を予想する

問 「西洋中心の立場を科学と言い張る矛盾」を説明しなさい。



(例)西洋の主観的な視点での分析や法則を客観的なものだと主張するのはつじつまがあわないということ。

※「科学」を「客観」と置き換えて、「主観ー客観」の対義語を用いるのがポイント。




比喩を理解する。中核を決める。字数を調整する。

 「万葉集」の場合、「見るからにそれだけのこと」の歌が多いのが、特徴だと言えるだろう。
 「それだけのこと」にあまり手を加えずに歌ができあがっているということは、歌の完成度が低いということだろうか。決してそうではない。むしろ 「それだけのこと」の、持つ力強さ、素材の新鮮さについて考えるべきであろう。とれたての野菜は、塩をかけただけでおいしい。新鮮な野菜は、まず刺身にするのが一番。
 「それだけのこと」がそれだけで歌になるためには、それなりの理由があるのだ。歌わずにいられない、伝えたくてたまらない、という心からの気持ちが、その大きな要素だと言えるだろう。
 後の勅撰集(古今和歌集以降)の時代の短歌は、同じように食物でたとえるとすると、凝ったフランス料理という気がする。掛詞、縁語、本歌取り、エトセトラ。さまざまな技巧は、料理をよりおいしく美しく仕上げるためのソースであり、スパイスである。
 もちろん、どちらがいいというのではない。素材の悪いものは、いくら加工したってダメだし、いいものは料理の仕方によっていくらでもおいしさがひきだされる。
 ただ、ある程度歌を作りつづけていると、いい素材に出会った時、塩をかけただけで食卓に出すという勇気がなかなか持てなくなってしまう。ついついドレッシングをかけたり、スパイスをきかせたり、してみたくなる。


問 傍線部 「塩をかけただけで食卓に出す」 とはどういうことですか。



※まず、比喩表現自体に線が引いてあることから、そこの解説をこそ目指そう。比喩は共通点を説明するのが大事である。「(ただ)それだけのこと」の歌が同類の情報になる(「だけ」にも注目する)。したがって、「万葉集」も同類の情報。「ドレッシング」「スパイス」が「さまざまな技巧」と対応しており、これが傍線部の対比情報。
※字数の短いバージョンと長いバージョンの二つを解答例にしてみた。


(例1)まったく技巧を凝らさずに歌を作ること。
(例2)万葉集の歌のように、さまざまな技巧に頼ることなく、歌わずにいられない、伝えたくてたまらないという気持ちにしたがって歌を作ること。





 「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降り積む。次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降り積む、か。よく出来てる」と梶井がひとりごとのように言った。それは、私が見た「青空」のバック・ナンバーに載っている三好達治の詩であった。三好は梶井の行っていた湯ヶ島で梶井と一緒にいて、まだそこに残っているのだった。
 「それは三好君の傑作ですね」と私は、その単純な詩句の中に漂っている甘美なノスタルジアの力を羨ましく思いながら言った。私には、散文的な描写をする力はあったが、散文形式の中に韻律を生かす術は持っていなかった。自然に人の口にのぼって愛誦されるような韻律を身につけている点で、私は三好達治の中に本質的な詩人がいるように感じていた。

問 文中の「甘美なノスタルジアの力」を本文中の詩に即してわかりやすく説明せよ。


(例)快い詩的リズムを持って「太郎・次郎・雪」という童話風な世界をうたい、遠い昔を恋しく思い起こさせる力。

※自然に人の口にのぼって愛誦されるような韻律=プラスイメージのリズム(そもそも「傑作」と書いてあるしね)
※ノスタルジアを「太郎・次郎・雪」の語感で「童話風」としたけど、いかがかでしょうか?

【参考】
韻律
韻文における音声上の形式。音声の長短、アクセント、子音・母音の一定の配列のしかたなどで表す音楽的な調子。また、俳句・和歌など、音数によって表すものをもいう。リズム

ノスタルジア=郷愁
遠く離れた故郷を強くなつかしみ、異郷にいるさびしさを感じること。郷愁。ノスタルジー。《類義語》ホームシック。▽nostalgia
古いものに対するあこがれ。(例)「大正という時代へのノスタルジア」




 
次の文章を読んで後の問いに答えなさい。

 日本語を特殊語視しているうちはまだましだが、やがて、外国語の知識から日本語に対して誤った判断を下すようになる。よく聞かれる例は「日本語はよく主語を略す」という表現である。この「略する」といういい方はすでに主語がなければならないことを前提にしていて、主語があるのが当然だという立場に立っている。世界の言語における文のあり方をみると、言語によっては主語・述語と揃うのが文のパターンの基本である言語もあれば、述語一つあれば十分な言語もある。「あなたは学校に行きますか」「はい、私は学校に行きます」が普通の文である言語と、「学校に行くの?」「うん、行くよ」で十分な言語もあって、後者は前者を略したものではない。

問 傍線部とあるが、この表現はなぜ誤りといえるのか。論旨に沿って60字以内で説明せよ。




(例)本来日本語は述語だけで文が成立するが、主語・述語が必要な外国語を基準にして、主語の必要な言語ととらえてしまっているから。

※直後の「この」という指示語に注目する。また直前文「誤った」のマイナスイメージを「てしまった」で表している。
※「A+逆説+B」で二重性を出している。


コメント
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