国語屋稼業の戯言

国語の記事、多数あり。国語屋を営むこと三〇余年。趣味記事(手品)多し。

自己紹介~その2~(国語屋前編)

2020-05-16 17:43:27 | 連絡先・自己紹介など

●今でこそ手品・マジックブログと化しているが、元々は国語屋(主要記事一覧)である。だから、国語の記事は意外と(本来は「戯言」中心であった)充実している。国語全般の記事はこちら→国語記事全部中高生のための内田樹(さま)は除く)

●地道に読んでくださる方もいて、過去記事にも関わらず、リアクションを下さる方もいらして嬉しいのである。一般の国語関係の読者も当ブログへ意外といらっしゃいる。亦説ばしからずや(またよろこばしからずや)。

●ここで自己紹介がてら自分の過去を振り返ってしまうのである。こうして国語屋というもの(一般化していいものやら)は成長していくのだなという感じが伝わっていただければと思うのである。

●家庭教師を除いて国語屋になったのは大手予備校の中学部からである。何と教歴なしで教えることになってしまった。よくもまあ審査を通ったものである。

 教歴なしに採用された要因をいくつか挙げておくと次のとおりである。

 1推薦人が大手予備校の超有名講師。これで1次は突破。

 2大学受験時に偏差値は80近くあった。

 3中学部有名講師の授業を聞くときにオリジナルのメモ用紙を作って受講していた。

 といったあたりだろうか。特に3が重要。板書だけでなく、セリフ、時間配分までわかるメモ用紙を自作したのである。元はSF小説の書き方で作品を分析するためのメモだったのだが、それを改造して作ったものである。

 このメモを本部校舎の課長に見られたときに「何でこんなものを作ったの?」ときかれ、「私は教える技術も実力もあります。ただ、時間配分だけがわかりません。それを知りたいのです」などと答えたものだ。生意気である。「技術も実力もあります」と言い切るなんで。若さゆえのという感じか。とりあえず、過去に無駄なものはないということをその時に学んだ。SF小説の分析メモが国語科講師になるのに役立つのだから。

●試しに雇用される。3月から一年間、週一で中学2年生の選抜クラスだった。受験直前の緊張感もないし、一般クラスのような怠け者はいない。そのあたりの事情と私は考えている。ちなみに3月に有名大学大学院文学研究科に合格。学歴にややコンプレックス(中堅大学の経済学部)のあった私には非常にありがたかった。ちなみにこの経済学部出身ということが大学受験科の小論文で大きな力となってくるが、その時は知る由もない。

※一応自慢してしまうが、中堅大学の経済学部をたしか首席で卒業である。卒業授与式で総代だったし。

●4月から中3一般クラスの担当が決まる。理由は3月に週5で入った新人さん(俺と同じ新人の立場じゃないか。なのに週5とは)が疲れるので1コマ減らしてほしいと頼んだから。中3一般クラスというとその校舎最大人数のクラスで新人に任せるのは不安だったが本部校舎の課長の強い推薦で決まったらしい。詳しくはわからない。アンケートもよく、夏期講習などは受講生が100名を超えていたがびびることなく授業に成功。2学期から中3一般クラスを増設する校舎でもコマをいただく。週3になると大学院より予備校の授業が面白くなり、大学院をおろそかにしてしまった。しかし、大学院での経験は後の大学受験科で役立つことになる。過去に無駄はないのである。大手予備校ではカメラが各教室ごとについていたのだが、板書を注意される。大学受験科の恩師みたいな板書をしてしまっていたからの注意である。中学生にわかりやすく板書をしなさいとのことであった。この後に修正した板書スタイルは原則として継続することになる。

●カメラのある教室で思い出したが、新人講師さん(たしか数学だったように思う)からエレベーターの中で、「あの教室のカメラで職員さんから見られることがあるんですか? あと、教室のマイクで授業を聞かれることがあるんですか?」と質問されたことがある。「たまにあるよ」と答えたら胃のあたりをおさえて、膝からくずれおちた。今考えればそのくらい緊張する職場だったのだなとも思う。そのあたり感覚が麻痺していたのだけれど。

●数年ほど経った頃、選抜クラスまではアンケートもよかったのだが、どうも特別選抜クラスのアンケートは好ましくなかった。このあたり、予備校の教務課から何か言われたわけではないが、自分のコンプレックスだった。しかし、ある年、少人数の特別選抜クラスで一流校へ全員を送りこむことに成功。偏差値では上位の中学生の頭の働き方を理解する。この年、自分自身の国語問題の読解力もあがる。できのいい中学生相手にしたことと大学院での多読のおかげか。大学受験生のとき以来の読解力向上である。

●なぜか土曜に中学部は社会、理科を集中させた時期があった。おそらく土日に他の教科を休ませるためと、中学高校の教師をバイトで雇うためと見た。しかし、バイトの先生(おそらくは教師)は休むことが多い(たぶん、学校行事で)。そのため、社会の代講(経済学部出身で日本史が得意科目)を頼まれることが増えたというか毎週そうなった。首都圏最南端の校舎の教務が私の授業を(カメラ越しに)見て安心したと言ったらしい。その「安心」の一言が私を首都圏南部に行かせることとなる。そして土曜の休みを失い、国語屋稼業氏は仕事を断らないという伝説も生まれた。おかげで年に4~5回は模試を作らされることになる。他の講師は年に一、二回程度なのに。韻文に強くなったのはこの時期。韻文問題を作りすぎた。ちなみにある新人の先生が小説の問題が作れず、九州の私立学校の問題をそのまま提出した事件があった。大手予備校の某九州校舎の指摘で発覚。国語の教科担当の職員さんが困り果てていたときにたまたまあった予備の小説問題を渡した。というか、予備の問題を作っている方も作っている方だが。これで中学部国語科の信頼も厚くなった。

※社会のデビュー戦は国公立開成クラスだったが、さすがに足が震えた。廊下にある消火栓の上にチョーク箱とテキストを置き、両太ももを叩いた記憶がある。教室でマイクにスイッチを入れた直後の第一声は少し鼻で笑った感じだった記憶がある。緊張している自分を笑ってしまったのである。

●中1から中3まで一般から特別選抜まで対応できるようになった私はいくつかの記録を作っていった。まずアンケートが中学部ながら国語科で全国の2位か3位になった。1位はハンサムで熱血漢で生徒に親身で教え方も丁寧で気さくでハンサムな、あ、これは既に書いたか、まあ、そんな先生がいらっしゃったので勝てなかったのである。他の記録としては夏期講習を一つの校舎全部担当という記録がある。朝の1限から7限までびっしりとである。日程も前期中期後期とまあ、ぎっしりとである。通勤時間がもったいなくて自腹でホテルを取ったくらいである。

●実績的には悪くはなく、特別選抜クラスで開成を筆頭に合格者を確実に送り出し、一般クラスからも県で3番目くらいの高校の合格者を出していた。

●国語科の信頼が厚くなった私は中3一般クラスのテキスト編纂を通年で任された。その際、国語科の職員さんからは10年は使えるテキストを作りましょうと言われたのであった。私がテキストを作るときに注意したのが自分好みの問題ばかりをいれないことであった。毎回、一題は自分の好みの問題を入れるにしても、私と違う方向の先生にも教えやすい問題を入れておいたのである。そのテキストは好評で、私はテキスト作成の仕事も増えていった。夏期特別講習会のテキストで私しか担当しない講義のテキストは全問自作の問題だけで作成するくらいのいたずらはしたが。そういえば、日曜講座の教材に文法・文学史の一問一答形式で「ポケット問題151」いう名称の教材を巻末につけたことがある。「ポケモン(問)」で151という洒落である。教職員でこの洒落をわかってくれた人は皆無だったやもしれぬが、生徒たちの何人かは気づいてくれていたと信じる。また、解答速報作成も担当したが、中々の解答を作っていたと思う。たしか、ぶ厚い年度別の問題集(俗に言う電話帳)でも、採用され、解説を書き、お金をもらっていた。今、考えればそれを購入しておくべきだった。証拠になるのに。

●さて、10年間使えるテキストを目標にしたテキストは無事に10年使用された。たしかそのはずである。ただ、10年目に大事件が起こる。それは中学部の廃止であった。

 

 

 


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