旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

北回帰線を超えて嘉儀に入り、監獄博物館を見学

2024-03-20 15:27:39 | 台湾
台湾の南部を横切る北回帰線。
市内に向かう一号線を北上すると見えてくる。

すぐ近くには嘉儀飛行場(=水上機場)↓

北回帰線博物館って何を展示しているのかしらん?

調べてみると、温帯と熱帯の違いとか、北回帰線上にある国々の紹介がされているそうな。



↑嘉儀駅は日本統治時代の建物↑
阿里山森林鉄道の起点になっているこの駅は明日の朝にちょこっと行ってみよう。

嘉儀には、珍しい「監獄博物館」がある。

1920年代日本統治時代の建物がそのまま1994年まで使い続けられていた。

網走刑務所と同じように中央の監視台から↓房への通路が放射状に広がって見通せる構造。

↑三本の通路が集まっている場所に↓

↑こんな神棚が↓今も残されている↓

「革命先烈之…」といっょに置かれているのは変ですね?と随行ガイドさんが質問したら

別のところにあった二つの位牌をあとから置いたのだとわかった。

中央監視所に↓こんな「有事ランプ」もある

↑いちばん右に「女監」とあるように、
ここには女性用の獄舎もあった。

壁で隔てられた場所に三十人ほどが収監できた女性用の建物↓

ここで産まれた子もあったのだそうだ。


面会用の建物↓

↓1990年でも、こんな風に受話器を通じて話してんですね↓

売店で↓現在の受刑者によって製作された品々を売っていた

品物の質は保証されております(^^⦆

もっと買ってくればよかった↓



外に出ると

当時の職員用住宅も残されている↓

現在はリノベーションされてアーティストなどの貸し出すスペースになっているそうな。


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東石郷の「義愛公」、牡蠣の村で昼食、

2024-03-19 13:49:16 | 台湾
2020年とはちがう「義愛公」を開帳してくださった。
※2020年にはじめて訪れた時のブログに「義愛公」について書きました。同じ人物でもこんなに違う雰囲気になるのか。

東石郷は小さな村が点在している。

それぞれの集落に大きな寺があるが、

この副瀬村は特に立派だ。

村を離れて都会で暮らす人々が故郷の寺に寄付をする。

新たな寺をつくり、神様を分霊する。
2020年にお会いした木造は↑この写真↓分霊先に出張しておられるのだそうだ。

「義愛公」は人気で、三体つくられている。
**
海に突き出した牡蠣の養殖村にむかう。

↑水没しかけた古い墓地がたくさんみえてくる↓

農業用水をとりすぎて起きた?地盤沈下による

↑長ーい竹さおを運ぶトラック。これって建設現場につかうの?

↑我々の目的地=牡蠣のレストランの前で止まった↓堤防にあがると…

↑牡蠣の養殖いかだにつかう竹さおだったのか(^^)

養殖場のど真ん中にあるこのレストラン↓

今回の旅でどうしても味わっていただきたかった

四年間忘れられなかった牡蠣のソーメン(温かいです)!
※四年前のブログにリンクします、このお店がコロナ禍を生き延びてよかった(^^♪

↑四年前、エビだと信じて食べていた料理が↓

↑実はイカと混ぜ合わせたすり身をカタチにしたモノと知った↓

↑なるほど、これをフライにしたのか。

多様な海鮮食材が用意されている。

この貝↑見た目以上に身がたっぷりだった↓

他でみたことがない飲み物↓

海藻ゼリーのジュース↑ぷるぷるしている↓

小松はけっこう好きでした(^^♪

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烏山頭ダム「開工記念!」写真でいちばん目立っていたのは

2024-03-16 23:24:45 | 台湾
↑四年ぶりに訪れた八田與一記念館。
渡された案内に百年前のダム起工式の写真が載せられていた↑
最前列に息子と映っている八田與一よりも目立つ・後ろで両手を広げている人物は誰?

「いとうさんです。はったさんのしんせき」今日おられた記念館の係員さんがおしえてくれた。


朝、台南のホテルを出発してすぐ↓

↑お祭りみたいな一団が道路を横切った↓

「神様の里帰りです」とガイドさん。
「故郷の神様を分霊して祀る習慣があって、春節のこの時期に神様も里帰りするんですよ」
写真には撮れなかったがこの後ろに大規模な山車が続いていた。


↑台南駅前の鄭成功像※鄭成功について※2019年のブログをお読みください

日本統治時代に建設された台南駅↑修復が終わったらじっくり見学できる時間を作りたいと思っているが、2019年から覆いをかぶったまま…

↑日本統治時代の専売局の建物は現在スターバックス。

一時間弱のドライブで烏山頭ダムの「八田技師記念室=八田與一記念館」前に到着。

ダムの放水口の上にある建物

ここからの放水シーンが映画「1931KANO」にもでてきていた↓

嘉儀農業高校=KANOが甲子園の決勝戦まで進出した1931年の前年に、烏山頭ダムも完成している。
嘉南の農業を飛躍的に発展させた烏山頭ダムはKANOにとって神の建造物。

映画の中で八田與一の役をやっていた俳優大沢たかおがここに来た時の写真↓ガイドさんが見せてくれた

↑左下の写真で八田與一の像を真ん中に写っている二人の男性。
右の大沢たかおと、左の男性は誰?
なんと今年から台湾総統となる頼清徳氏!

調べてみると写真が撮られたのは2014年の1月※「アジアンパラダイス」のHPにリンクします
頼氏は当時台南市長。
三人が「似ている」と言われてこんな写真を撮った。
気さくな人柄がつたわってくる(^^♪
この後に蔡英文総統に重用されるようになる。

9時に記念館が開く。
一室だけの記念館だが展示内容は濃く、今日おられた係員さんはとても詳しい方だった。

冒頭写真の両手を大きく広げた人物伊東哲(いとうさとし)は八田與一のいとこの子供にあたる。
調べてみると東京芸大卒業で、ダム建設など技術方面とは縁のなさそうなアートな人物。
八田與一より五歳年下で当時30代後半。
柳原白蓮(※朝ドラ「花子とアン」にもでてきた)をモデルにした絵を描いたせいで日本の画壇で挫折して、いとこの八田與一が元気づけようと台湾に呼び寄せたのだそうだ。
ダムの工事についての絵をたくさん描いた。
「この絵です」と、ガイドさんが↓スマホの画面を見せてくださった↓

最近オークションに出た絹にろうけつ染めをした作品だそうな↑
↓ネット検索をしていたら他の似た作品もでてきた↓

↑こちらの大きさは93×80センチ。
画中に描かれている蒸気機関車は↑ダム建設の掘削ででた岩石を運び出している。
ダムの堰堤に展示してあるベルギー製の蒸気機関車がこれ?↓

「いえ、絵の機関車はドイツ製のものです。」↓

確かにカタチがちがう。
ダム建設当時、使われていた機関車は二路線あり、
土砂運び出しにはより馬力のあるドイツ製が使われていたそうだ。
あ、もういちど絵をよく見てみると、
↓いちばん下に描かれた方がベルギー製のもののようだ↓

↑煙突を長く、前出のドイツ製との違いをちゃんと描いてある↑

伊東哲の絵は建設当時の烏山頭ダムの様子を知る貴重な手掛かりになっている。
だが、これは技術者の絵ではない。
あくまでアーティスト・表現者としての絵に見える。
どこか彼の絵画をまとまって見られる場所はないのかしらん。

↑2020年2月に訪れた時、復元された応接室に飾られていた八田與一の肖像画も伊東哲の描いたものだった。
※2020年のブログにリンクします※殉工碑についても書きました⇒

ダムの堰堤に登る

↑今日もダムを見守る↑八田與一の像↓

↑2017年、このブロンズ像の首が切り取られた↑確かにその跡がある↑
※「サンケイ新聞」HPにリンクします
切り取られた首は行方不明。
復元するために↓元の像からつくられた胸像がモデルに利用されたときいた。

↑先ほど訪れた記念館にさりげなく飾られていた胸像がそれだったのか↑
↓事件以来監視カメラが設置されたが

↑「どうぞ微笑んでください」(^^)


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鄭成功は利用される。 赤崁楼の「贔屓」と「両面碑文」

2024-03-12 06:58:05 | 台湾
清朝の皇帝から↑鄭成功を祀る廟をつくる勅令が送られた箱が天井から下げられていた↑
中に入っていた文↓

鄭成功は明朝最後の皇帝に忠誠を誓い、
清朝と対決した人物。
清の皇帝がそれを祀ろうとするのは不思議。
「鄭成功は清朝の時代にも、台湾では密かに崇拝され続けていたのです」
「台湾の統治を成功させるために、清朝の官僚だった沈葆楨が鄭成功崇拝を認める方が得策だと勧めたのです。清朝にも知恵のある臣下がいたのです」
と、ガイドさん。
↑沈葆楨の名前が左の最後の行に見える↑
★帰国後、さらに教えていただいた↓
「1874年薩摩藩台湾出兵事件の後の台湾に赴任、台湾の内政体制の検討や国防強化など、台湾の現代化に貢献の大きい方です。
異族統治者である清国が台湾漢民族移民と親近感を築くため、民族の英雄(※注:明朝は漢民族の王朝だった)として崇められる鄭成功にお宮を作ることを朝廷に奏請しました。そのほか、中国から台湾へ移民規制の解禁、1876年に新しい自治体の台北府を設置、山岳地帯の開発+原住民を漢化させるなど台湾に大きな影響をもたらした政策を立てました。」

この当時の清朝は(実質西大后が牛耳った)光緒帝の時代。
↑上の勅状にも冒頭にその名前が見える※光緒元年は1876年。
我々日本人は、清朝は台湾を発展させる気などなかったようにイメージしているが、やる気と能力ある官僚もいたのだ。
この沈葆楨という人物をもう少し知ってみたくなった。


日本敗戦の後を統治した国民党も↑鳥居の上に青天白日旗を掲げて鄭成功の廟はそのままにした。
民衆への人気取りだった。
16世紀に台湾島を実質独立国として統治した鄭成功は、
台湾島を統治する政権に、いつも利用されている。


鄭成功は長崎平戸の日本人女性田川マツと、明朝に仕えた貿易商(あるいは私掠船)の鄭芝龍との間に生まれた。
平戸の田川家跡には中華門が立っている。
※平戸を訪れた時のブログにリンクします

祭壇の後ろには、母・田川マツの位牌↑通常ならば父のものだが、父の鄭芝龍は清朝方に寝返ったとされるから置かれない。

↓日本統治時代「開山神社」だったころの神前具↓木魚も見える

2019年に訪れた時には逆さに展示されておりました※リンクします

**

オランダが建設した要塞を引き継ぐ「安平古堡」へ
2020年2月に訪れた時とはずいぶん展示が変わっていた。
※2020年のブログにリンクします

四年前になかったのは↑先住民が鹿を狩っていた展示。

鹿は昔から台湾島に生息していた。
その皮は日本で特に武具の材料として愛用されていたので、

↑東インド会社が台湾から日本へ大量に輸出していたそうな。

↑「大員」が当時の台湾↑

↑塔から見える19世紀の商館「徳記洋行」は↓イギリスの貿易会社の建物↓

↑日本時代には「大日本塩業」として使われていた。

***
街の中心部、ホテルから歩いても行ける「赤崁楼(せきかんろう)」へ。
※赤崁楼についてはこちらに書きました

↑ここで小松が今回ぜひぜひ見ておいていただきたいと思っているのは↑石碑を背負った9匹の「贔屓」像
↑石の亀に見えるが「贔屓」とは↓竜の9匹の子供の一匹で、重いものを運ぶのを得意としたとされる↓

↑なので石碑を立てるとき、よくその土台にされる↓

今は9匹しかいないが↓もともと清朝の乾隆帝は10匹贈っていた
※その話はこちらに書きました

嘉儀公園にあるニセモノの十匹目とぜひ比べていただきたい※リンクします

***
日本統治時代末期、戦火が激しくなる中でも赤崁楼を修復し護ろうとした台南市長・羽鳥又男を記念する碑↓

↑左側・指先に名前が読める
↓この碑は「両面碑文」として展示されている↓

※この碑文が何度も展示を変えていった話をこちらに書きました

****

夕食は、台南に来たらぜったい食べたい「度小月」のタンツー麵を



台南はまだランタン祭り中

このもう一つの鄭成功廟は↑かつて鄭成功の息子・鄭経が最期を迎えた邸宅跡と言われている。
↑この井戸と敷石の一部は当時のモノと伝わる※2019年2月のブログにリンクします
鄭成功の台湾島独立政権は実質三代で滅亡した。

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客家(はっか)の街竹田から普通電車に乗り九曲堂のパイナップル工場跡地へ

2024-03-08 08:02:29 | 台湾
「下に垂らしたこういう春節の飾りをするのは客家の人たちだけです」

日本時代につくられた竹田駅は訪れたことがあったが※2019年に訪れた時のブログにリンクします
ここが客家人の集落とは知らなかった。
※客家人とは?詳しく書かれているページにリンクします

二峰圳地下ダムから30分程で竹田駅に到着。

駅前にある「池上文庫」が11時半まで開いていた。

日本時代に軍医として赴任していた池上一郎博士の寄贈したもの。
※こちらに詳しく書かれています
毎年記念祭を開催し、寄せ書きした日の丸を飾っている。

管理をしておられる方が↓

「私の母は東京で被服学校に通っていたのよ」と日本語で話してくれた。
**
お昼は近くの客家料理へ

チャーハンが賞をとった店。

見かけで味はわかりません(^^)/

↓これは客家料理によく使われる「水連菜」の炒め物

↑「タイワンガガブタ」とも呼ばれるそうな↓どんなふうに収穫しているか↓

おしえていただいた↓

シャキシャキして空心菜に似ています(^^)

小松が印象的だったのは具入り餅

↑スープの中のもちもち団子に具がはいったもの↓
2020年に竹田で食べた別の店にもあった※中身の写真も載せたブログにリンクします
調べてみると「客家鹹湯圓」という客家料理の一形態だとわかった。


↑こちらはイカと唐辛子 案内してくださったSさんは「そんなに辛くないですよ」と言われたが( ;∀;)

***
竹田駅のホームに上がると↓

檳榔樹の畑が見渡せる。

Sさんが買ってくださった地元でつくっているチョコは↑なんと「サクラエビ味」↓

サクラエビは地元の名産で、地元でカカオを栽培しているチョコレート工房が考案した。

普通電車に三十分ほど乗って高雄方面に戻る。

↑高雄市内を走る地下鉄やライトレールとちがって、こちらは飲み物OK。
屏東県と高雄市の境界の川を渡る時↓今は使われていない鉄橋が見えてくる↓

長さ約1.5㎞ ↑ 1913年完成当時、東洋一の長さを誇った24連トラスの鉄橋。

1992年に役目を終えた後、2005年の台風増水で一部が流された。

九曲堂駅に到着↑パイナップル色に塗られた柱、枕木のベンチ

駅近くに↑さっきの鉄橋を建設した飯田豊二の記念碑がある

完成の直前にマラリアにかかり落命した。



ここはパイナップル生産の拠点だった場所。
駅前のパイナップル農民の像の前で撮影(^^

葉金塗という人物がはじめた「泰芳商会」の工場の一部が記念館になっている。

↑壁に描かれた邸宅は葉金塗の台北にある邸宅だと後から知った※この写真は2019年9月撮影↑

当時乱立していたパイナップル会社のラベルがたくさん。これらが統合されて「合同パイン」になる話を
※2019年のブログに書きました


パイナップルと言っても多様な種類がある。
もともと台湾のものはそんなに甘くなかったのだが、ハワイからもってきた種類と交配を重ねて、もっと甘い・台湾に適したモノが生産されるようになった。

併設のカフェお店で↑ドライ・パイナップルとパイナップルのシャーベット





台南へ向かう。
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