午前七時すぎ。まだ真っ暗のイースター島。ハンガロアホテルの平屋コテージのドアを開けると、暗闇に本格的な雨がふっていた。
まだ、夜明けのかけらも感じられないなか、朝食へ。
このホテルだけは、しっかりしたメニュー
オムレツもつくってくれる
●ラパ・ヌイの蜂蜜がおいしい
レストランの外がだんだん明るくなってくると、ここが海を見下ろす少し高台なのがわかる。
この旗はなに?※別に書きます
出発の九時になってもまだ雨はつづいている。
はじめてのモアイとの対面が雨なのか・・・
十分ほどで●タハイ遺跡
到着するころ雨は止んできた。とっても天気が変わりやすいイースター島
ここには島で唯一、オリジナルの目を復元された一体のモアイが立っている
○モアイ・コテリクAhu ko te riku 高さは8メートルほどと大きい
↓他に、五体並んだアフ・ヴァイ・ウリAhu vai uriも1976年に復元された↓
↑一体離れているのはアフ・タハイAhu tahai
島全体で九百体以上が確認されているモアイだが、もともとすべて倒されていた。
目があったことさえはじめは知られていなかった。
モアイは村を見守るように立てられたと言われている。
住居跡と言われる石の囲い↓
住むというよりも眠るための場所で、この石組に木の棒を刺してその上にボートのように屋根をかぶせたとされている↓
こうして立っているモアイの姿が見られるのは現代の研究者のおかげ。
特にこのタハイ遺跡の復元にはアメリカ人のウィリアム・ムロイという人物が尽力した。
事前に読んだ本で、ここにムロイの墓があると書かれていた。
地元英語ガイドさんに「どこですか?」と訊ねると
海に向かって左の方だという・・・あ、あの石か?
ムロイは1917年生まれ。ユタ、アリゾナ、ニュー・メキシコなどでフィールドワークを重視した文化人類学を実践していた。
1955年にあの「コンティキ号」のノルウェー人、トール・ハイエルダールに誘われて、十か月に及ぶポリネシア調査旅行に出た。
この時訪れたラパ・ヌイ(イースター島)に魅せられ、その死までかかわり続けた。
1978年にアメリカで亡くなった時、本人の遺志で遺灰をこの場所に撒き、墓碑をたてたのだった↓それが、これ
ムロイはモアイたちを見守り、モアイはムロイを見ている
まだ、夜明けのかけらも感じられないなか、朝食へ。
このホテルだけは、しっかりしたメニュー
オムレツもつくってくれる
●ラパ・ヌイの蜂蜜がおいしい
レストランの外がだんだん明るくなってくると、ここが海を見下ろす少し高台なのがわかる。
この旗はなに?※別に書きます
出発の九時になってもまだ雨はつづいている。
はじめてのモアイとの対面が雨なのか・・・
十分ほどで●タハイ遺跡
到着するころ雨は止んできた。とっても天気が変わりやすいイースター島
ここには島で唯一、オリジナルの目を復元された一体のモアイが立っている
○モアイ・コテリクAhu ko te riku 高さは8メートルほどと大きい
↓他に、五体並んだアフ・ヴァイ・ウリAhu vai uriも1976年に復元された↓
↑一体離れているのはアフ・タハイAhu tahai
島全体で九百体以上が確認されているモアイだが、もともとすべて倒されていた。
目があったことさえはじめは知られていなかった。
モアイは村を見守るように立てられたと言われている。
住居跡と言われる石の囲い↓
住むというよりも眠るための場所で、この石組に木の棒を刺してその上にボートのように屋根をかぶせたとされている↓
こうして立っているモアイの姿が見られるのは現代の研究者のおかげ。
特にこのタハイ遺跡の復元にはアメリカ人のウィリアム・ムロイという人物が尽力した。
事前に読んだ本で、ここにムロイの墓があると書かれていた。
地元英語ガイドさんに「どこですか?」と訊ねると
海に向かって左の方だという・・・あ、あの石か?
ムロイは1917年生まれ。ユタ、アリゾナ、ニュー・メキシコなどでフィールドワークを重視した文化人類学を実践していた。
1955年にあの「コンティキ号」のノルウェー人、トール・ハイエルダールに誘われて、十か月に及ぶポリネシア調査旅行に出た。
この時訪れたラパ・ヌイ(イースター島)に魅せられ、その死までかかわり続けた。
1978年にアメリカで亡くなった時、本人の遺志で遺灰をこの場所に撒き、墓碑をたてたのだった↓それが、これ
ムロイはモアイたちを見守り、モアイはムロイを見ている