《手造の旅》クロアチアとアドリア海 二日目午後
スロヴェニアの首都リブリャナを出発して一時間ほどでプレディャーマ洞窟城へ到着。二十年以上前、イタリアのトリエステに一週間滞在した時、当時未踏の地だったスロヴェニアへの日帰り旅を企画。偶然写真でこの姿を見て仰天して、即決で訪れた。その時以来の訪問。
洞窟城に現在の入口(写真右手から)が造られたのは、16世紀になってから。
それ以前は本当に洞窟の中にえぐりこんた構造だけだった。
当時の入口は写真で一番左下の方に見える小さな入口だけ。
実に難攻不落の要塞だった。
包囲されても洞窟の抜け穴から自由に外へ出られる、こんな構造だったから
現在見えている「城」然とした構造を入ると、すぐに昔の洞窟城の壁が残されている↓
拷問の部屋も洞窟
きれいにお城の宮殿として復元された部分もある
この部屋の入口の番犬が飼われていたスペース
しかし、こういった城の見学はヨーロッパに行けば珍しくない。
プレディヤーマ洞窟城の面白さは、やはり15世紀までに建設されていた、地形と城が一体になった部分。
ここが15世紀までの城の壁
当時を彷彿とさせる木製の橋を渡って入ると
まさに本当の洞窟がひろがっていた。
ふりかえると
かつて、この洞窟内部に城を築いていた痕跡は、入口付近の窓の部分にみられるだけ
現在ほとんど洞窟にもどってしまっている。
それでも、いちばん奥の天井には梯子がかかっていて、上部に通じているのが分かる
夏場には、洞窟を探検する特別ツアーも行われる。これでは包囲して兵糧攻めなど出来ない。
城主としてもっとも有名な人物は●エラズム・プレディアムスキ(Erazem Lueger)スロヴェニアのロビンフッドと呼ばれる
トリエステ総督の息子だったエラズムは、1483年ウィーンの宮廷で神聖ローマ皇帝フリードリヒ三世の重臣ポッペンハイム元帥を殺した(友人を辱めたのが原因だと言われる)。
以降、追われる身となったエラズムは神出鬼没でハプスブルグ家を攻撃するようになり、ついにこの城に追いつめられた。
一年に及ぶ包囲となったが、城はいっこうに落ちる気配がない。
彼らは洞窟を通って自由に外へ出入りし、近在から新鮮な食料を調達していたのだった。
時には調理した羊の丸焼きを奴隷を使って敵陣に届けるほどの余裕を見せ、包囲側を落胆させた。
しかし、エラズムの奴隷が買収され城の弱点を教える。洞窟の外側に突き出したトイレの部分だけが脆弱な構造になっていたのだ。
ある日の宴会の後、エラズムがトイレに入った時、奴隷が包囲側に合図をおくる。
すると、包囲側の大砲がトイレごとエラズムを破壊し、ついに城は陥落した。
そのトイレを復元したものが、これ
中世の大砲の石玉がそばに置かれている。
城のテラスから、包囲側が陣取っただろうあたりを見晴らす
小さく見えている礼拝堂がわかるだろうか。
そのそばに半分朽ちた巨木がある。
それは、エラズムの恋人が彼を偲んで植えたものだったと伝えられている
***
洞窟城から一時間弱で、シュコツィアン鍾乳洞に到着。
ほとんどのツアーが訪れるポストイナではなく、今回はあえてこちらを選んだ。
受付の建物入口⇒
洞窟への入口は別の場所で、ガイドと一緒に森の中を十分ほど歩いてたどりつく
ようやく入口が見えてきた
ここは専任のガイドと一緒にしか入場できない
スロヴェニア語のグループと英語のグループに分けられる
「洞窟は二つのパートに分かれています、後半は川を見下しながらあるきます」
この「後半」のルートこそが、シュコツィアン洞窟ならではの魅力だった。
前半はこんな感じ。スケールは大きいがよくある鍾乳洞
世界中の鍾乳洞を見学してきたが、よほど特徴があるところでないと似たような印象になってしまう。
シュコツィアンの後半は、この数少ない「特徴があるところ」だ。
暗闇を轟々と流れる地底の川。その四十メートル上を渡された橋を渡る。
岩壁にライトアップされているのは、この橋が出来る前の見学ルート。
とんでもない崖にへばりつくように手すりが設置されている。
下の写真奥に古いつり橋が写っているのが見える。
「え?あそこを渡っていたんだ」↓
一時間はたっぷり歩き、ようやく出口の光が見えてきた。
岩の単色ばかり魅せられてきた目に紅葉の色がうれしい。
谷からはちょっとしたケーブルにのって受付をした建物まで戻る
今日宿泊のイタリアのトリエステまで、ここから一時間ほどのドライブだ。