旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

タリン旧市街、下の街を歩く

2013-01-22 15:11:48 | エストニア
高さ64メートルのタリン市庁舎尖塔には「オールド・トーマス」の風見が取り付けられている。
※市庁舎の塔は上の写真で大きな白い塔の後ろに隠れている。
※白い大きな塔は「オレフの塔」。これについてのお話も後半に書きました(^^)

その由来は15世紀。
尖塔には木製のフクロウが取り付けられていた。
タリンの貴族たちはそれを弓で射る競争をしたが誰も果たせないでいた。
「誰か腕に覚えのある者はあるか!?」
応じた貧しいトーマス少年があろうことか一射で成功!
きびしい身分社会だったが街の守備兵にとりたてられ、老年まで市民に親しまれる「オールド・トーマス」となっていった。
この広場で子供たちにお菓子を配るのを楽しみにしていたのだそうだ。

死後、1530年に尖塔が改修され、初代の「オールド・トーマス」が取り付けられた。
それは1944年にソビエト軍の爆撃で破損するまで四百年近くもそこにあったが、今は市庁舎の地下に保管されている。
1952年に製作された二代目は1996年の嵐で傷んで市民博物館に移動。
現在みられるものは三代目↓

**
世界遺産に指定されているタリン旧市街だが、第二次大戦で旧市街は南側の11%が爆撃で壊されたので、このあたりは19世紀の建物のなかに1950年頃ソビエト時代の建物が見つけられる。

「スプルス」とは、エストニア語で「友好」の意味。スターリン時代に劇場・映画館として建てられた。エストニアは第二次大戦後、こころならずもソビエトの「友好」によって併合されていたのだ。

ほかにも、旧ニコラス教会は16世紀宗教改革をも生き延びていたのに爆撃で破壊され、今は展示場となってしまっている。教会の全貌を見上げることのできる空間も爆撃で周囲の建物がなくなった結果出現した。

*昨夜も来た旧市街中心のラエコヤ広場、おや?きのう広場の真ん中にあったモミの木がなくなっている。


広場の一角にある1422年には記録に出ている薬局。※壁に書かれた名前は、二階部分の「バルタザール」という名前のにんにく専門料理店であります。

世界でもっとも古い薬局のひとつ。内部も天井をはじめ雰囲気を感じさせる。

市のガイドブックによると、16世紀末からブルハルト家十代が三百年の独占販売。「中世、薬局はワイン、衣類、紙類、火薬、散弾銃、ワックス、菓子、薬としての宝石の粉などを販売し、重要な役割を果たしていた」

薬局右の路地をはいると、精霊教会。ここの壁にある時計は17世紀にはじめての公共の時計として登場したもの。


精霊教会の壁に、ロマネスクの小さな扉。のぞいてみるとお土産屋さんでした。

むこうに見えるのは「大ギルド会館」。ちょっと入ってみると、なかなか面白い展示があった。
●オレフ教会の天井にあったキーストーンの天使

●貧者のお金

裕福なギルド商人の社会的義務として「貧者の救済」があった。
それを実現する一工夫として、お金そのものではなく決まったサービスが受けられる、いわば「トークン」を渡していた。
これを持っていけば精霊教会で衣食のサービスが受けられるのである。
この「トークン」には、中でも自己顕示欲のひときわ強かっただろう人物が自分のイニシャルを刻んでいる。
V.D→Urvan Denele氏は1539年にギルドの有力メンバーで、福祉担当であったのが確認されている。

近くには別のギルド会館もある。
ドイツ系の職人たちがメンバーだった「カヌート・ギルドハウス」

正面壁の銅像、左がデンマークの聖カヌート、右が宗教改革者マルティン・ルター。

**
昼食をカレリア料理店にて
「カレリア風前菜盛り合わせ」

ニシンを焼いて黒パンに乗せたもの

ビールは地元のSAKU

***
食事の後、北の海側の方へ歩いていく。
15世紀の切妻が三つきれいにならんだ、通称「三姉妹」と呼ばれる建物は、現在高級ホテルとなっている。


見上げるオレフ教会には、その塔をつくった「オレフ」の伝説が・・・

この巨大な塔は、ふらりとやってきた異邦人が、莫大な報酬と共にその建設を約束した。
が、「完成の日までに私の名前が分かったら報酬は一ペニーにでよい」と言い添えたので、
町中が彼の名前を知ろうとやっきになった。

完成が近づいたある日、それは思わぬところから知られてしまう。
建築家が連れてきていた妻が、こどもを寝かしつける子守唄の中で「♪もうすぐオレフがお金を持ってきてくれる」と唄っていたのである。

折しも塔に上っていた彼に、街の人が「お~い、オレフ、塔がまがってるよ」と呼びかける。と、驚いたオレフは手を放して墜落してしまった。

伝説で、石になってしまったという彼の墓が、教会の外壁にある。


海に向かう城門は「ふとっちょマルガリータ」と呼ばれている。

ここは現在海洋博物館になっているが、その屋上はかつて灯台だった名残がある。
海に向かうその見晴らしが楽しめる。


城壁を歩くこともできるが、料金3ユーロ。

****
午後四時半、ホテルから一般のバスに乗って港へ向かう。人数が少ないから、こんな個人旅行みたいな行動もできる。

ターミナルから船まで長いブリッジを歩く。

ヘルシンキまで二時間のクルーズ、デッキから見る海は流氷がいっぱいだった。


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タリン旧市街「上の街」トームペアを歩く

2013-01-22 14:55:15 | エストニア
旧市街トームペアの丘への道を「自由広場」から上る階段に、エストニア再独立1991年以降の2007年に建てられた記念十字架がある。※右側の壺装飾につけられた三匹の青いライオンはもともとタリン市の大紋章で、現在国の紋章となっている。

ナチスの鉄十字に似ている?それはエストニア人も思っているようだ。
※これについてもう少しこちら参照
十字の真ん中にある「E」の文字と図柄が、1918年から20年までソビエトに対して行われた独立戦争時の勲章と同じ。下は大ギルド会館に展示されていた当時の勲章。


トームペア城塞地区の塔門が朝陽に輝きだす。

右側は旧ニコラス教会の塔。左側はロシア正教会

これについてこちらにもう少し書きました。

旧市街は二つの地区に分かれる。支配者階級の住む上の町と下の街を隔てる城壁がこれ。

旧王城はロシア時代に宮殿に建て替えられ、現在も国会議事堂になっている。任期四年、101人の議員。

国会議事堂となっている旧王城から大聖堂へのTOM(大聖堂)KOOLI(学校)通り。
もともと大聖堂付きの学校だった。

デンマーク王の支配下の1240年にカソリック修道士会によって設立。その後、支配者階級であるドイツ人商人の子弟が教育をうける場所であった。1893年、ロシア化政策により「すべての授業をロシア語で行う」事になり一時閉鎖。1906年再開。
ロシア革命後の独立エストニアの時代再びドイツ語のグラマースクール。1939年ソ連の支配下となったエストニアにおいて最終的にその役割を終えた。建物は現在はバレエスクールとなっている。

通り向かいには演劇学校もあり、入口にはその創立者であり初代校長だったパンゾという人物のレリーフが掲げられている。


大聖堂の塔が見えてくる。1219年にはじまるデンマークの支配時代からすでに木造の教会がここにあった。すぐにドメニコ派によって石造りに建て替えられ、16世紀にプロテスタントのルター派となり、何度も火災に遭ったが、現在まで大聖堂として使い続けられている。

内部有料だが、せっかくだからガイドさんと共に入場。写真撮影も「人も少ないからいいよ」と許可していただいた。

床いちめんに古い墓石が敷かれている

壁にはそれに対応して、この地に住んだたくさんの貴族たちの紋章がある。葬送行列の最初にこの紋章を掲げたのだそうだ。

展望台から下の街を見下ろす


上の町と下をつなぐのは二つの通り。「長い脚」通りは、馬車が通るためのゆるい傾斜の長い道。そこから人間が近道をするためにより急な「短い脚」通りが分かれている。これはその階段を下から見上げたところ。


⇒タリン旧市街「下の街」へ続く
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