シチリアの首都パレルモを観光する多くのツアーでは訪れないが、ここを見れば、12世紀ノルマン王朝がイスラム文化にどっぷりつかっていた様子がよく分かる。
2014年9月、はじめて訪れることができた。
ごみごみした市街が突然途切れて四角いシルエットが姿をあらわす。
「え、こんなのが残っていたのか」と思わせる、いかにも武骨なノルマン様式。
当時の本宮であったノルマン宮殿が後代に改築増築を重ねて元の姿はほぼとどめていないのにくらべ、ここジーザ宮殿はびっくりするほど「当時のまま」に見えた。
前庭の部分はアルハンブラ宮殿ばりの池が配置されている。
これはしかしつい最近の修復で、当時の雰囲気を再現するスタイルとして出現させたものだった。
17世紀のスペイン貴族たちが所有していた時代の庭に果たしてこんな水路はあったのか?
★1166年ごろ、初代シチリア王となったルッジェール二世が建築をはじめた当時、この周辺は広大な城外の狩場だった。
入場口がどこかもよくわからない・・・
あ、子供たちが遊んでいるここがそうだったのか
子供たち、地元のおじさんたちがたむろしている宮殿のすぐ横の教会がたまたま開いていた。
一見、どこにでもあるルネサンスからバロックのファサードだけれど、すぐにはっと気づいた。
左側の部分は、明らかにアラブ・ノルマン様式の赤い丸屋根が載せられている。
明らからにサン・カタルド教会やサン・ジョバンニ・エレミティ教会と同じ建築様式である。
つまり同じ12世紀に建築されたと考えて間違いないだろう。
現在の正面入り口は、数百年後にあとから増築された部分なのだ。
こういう下町の小さな教会というのはずっと開けているわけではないから、実に幸い。入らない手はない。
入口をはいってすぐのところは↓こんな感じ
だが、さっきの丸いドームの下の部分に入って天井を見上げると、
「おお!」アラブ風のスタラクタイト様式の天井。
まるでモスクの天井ではないか。
色はほぼなくなってしまっているが、
隣接するジーザ宮殿はノルマン王家の夏の宮殿だったから、
その付属礼拝堂という位置づけに違いない。
キリスト教徒の礼拝堂の天井にこのイスラム教の美術様式。
ノルマン王家の「美しければよし」とする姿勢がみえる。
このシンプルな壁に、かつてはどんな装飾がされていたのか
おもしろかったのは、12世紀当時は教会の入口が現在と全く逆だったのがわかる構造。前出の写真をよく見てもらえれば分かるが、丸いドームが乗っている下の部分は、アプス=教会後陣の外側構造に違いない。方位磁石で確認すると真東を向いていた。教会建築の基本を履行している。
***
いよいよ宮殿へ入場
まるで砦のようながっしりした簡素な造りはノルマン一族の好みだったようだ。
近くから見ると、かつてはこの壁もこんなにシンプルではなかったのではないかと思わせる。
屋根の上の建物は12世紀にはなく、雨水をとりこむための構造がある、屋上庭園のような場所だったようだ。
★「ジーザ」という名前は、アラビア語の「アジーズ」に由来する。
この宮殿の上部は現在銃眼のギザギザになっているが、かつてはまっすぐで、そこにアラビア語で「ルッジェーロ王がこのアジーズな(=素晴らしい)宮殿を建てた」と書かれていた。銃眼をつくるために半分削り取られた後、「アジーズ」と読める部分が残っていて、宮殿そのものの通称となったのである。
ガイドのマニュエラさんは、「まず、ここを見た方がいいわよ」と、順路の最後にくる正面中央の大広間へ案内してくれた。
★なんと、アルハンブラ宮殿の一室を思わせる雰囲気だ。
そこに、ノルマン宮殿とそっくりの黄金が輝いている。
スペイン貴族時代に描かれたフレスコ画もある。
この絵はとても変わっていて、よく見るとギリシャの神々と共に悪魔がたくさん顔を出している。
何故こんなデザインなのかは不明だが、この絵の悪魔は3月25日になると踊り出して何匹いるのか数えられなくなってしまうそうな。
パレルモの人はこの伝説にちなんで、動いていて数えられないものを「ジーザの悪魔のように数えられない」という表現をするのだとか。
何百年にもわたる装飾それぞれの一部一部が残されて共存している空間だ。
モンレアーレのモザイク修復にも携わっていたという方が、まさに作業中。
この後ろの壁に注目。壁から流れてきた水が緩い流れで広い庭の池にゆっくり流れ込み、暑さをやわらげるシステム。
これとほとんど同じものをインドのジャイプールで見かけたのを思い出した。
暑い夏を快適に過ごすために、この宮殿は様々な工夫をほどこしている。上階から見るとよくわかるがかつては海からの風を遮るものはない場所だった。その海風を建物の上階まで誘導する穴が壁に沿ってあけられている。
雨の水を溜めるタンクがあり※この写真はかつてのその場所にあったという噴水スペイン貴族の改築により、そのオープンエアの構造は蓋をされた。
ギリシャ神殿からとってこられたと思われる柱この柱の位置も現在の場所ではなかった。
柱の下部にあるおもしろい図像
その水を建物内部に流して涼をとる管が床下に埋められている床下は軽く仕上げるためか空洞のテラコッタが敷き詰められていた
12世紀ごろノルマン王朝時代がいかに多様な文化が共存した時代だったのか理解させてくれる展示がされている。
これは多分エレミティ教会(かつてはモスク、現在は廃墟)の墓所から発掘された墓碑。
上がヘブライ語、右がギリシャ語、左がラテン語、下がアラビア語。
宗教・言語・文字、これらすべてに寛容だったノルマン王朝の支配した12世紀シチリアは、中央ヨーロッパで言われるような「暗黒の中世」などではなかったのではないか。それは、現代の我々でも実践することの難しい、「多様さを認め合う社会」だったように見えてくる。
このジーザ宮殿はその象徴なのである。
2014年9月、はじめて訪れることができた。
ごみごみした市街が突然途切れて四角いシルエットが姿をあらわす。
「え、こんなのが残っていたのか」と思わせる、いかにも武骨なノルマン様式。
当時の本宮であったノルマン宮殿が後代に改築増築を重ねて元の姿はほぼとどめていないのにくらべ、ここジーザ宮殿はびっくりするほど「当時のまま」に見えた。
前庭の部分はアルハンブラ宮殿ばりの池が配置されている。
これはしかしつい最近の修復で、当時の雰囲気を再現するスタイルとして出現させたものだった。
17世紀のスペイン貴族たちが所有していた時代の庭に果たしてこんな水路はあったのか?
★1166年ごろ、初代シチリア王となったルッジェール二世が建築をはじめた当時、この周辺は広大な城外の狩場だった。
入場口がどこかもよくわからない・・・
あ、子供たちが遊んでいるここがそうだったのか
子供たち、地元のおじさんたちがたむろしている宮殿のすぐ横の教会がたまたま開いていた。
一見、どこにでもあるルネサンスからバロックのファサードだけれど、すぐにはっと気づいた。
左側の部分は、明らかにアラブ・ノルマン様式の赤い丸屋根が載せられている。
明らからにサン・カタルド教会やサン・ジョバンニ・エレミティ教会と同じ建築様式である。
つまり同じ12世紀に建築されたと考えて間違いないだろう。
現在の正面入り口は、数百年後にあとから増築された部分なのだ。
こういう下町の小さな教会というのはずっと開けているわけではないから、実に幸い。入らない手はない。
入口をはいってすぐのところは↓こんな感じ
だが、さっきの丸いドームの下の部分に入って天井を見上げると、
「おお!」アラブ風のスタラクタイト様式の天井。
まるでモスクの天井ではないか。
色はほぼなくなってしまっているが、
隣接するジーザ宮殿はノルマン王家の夏の宮殿だったから、
その付属礼拝堂という位置づけに違いない。
キリスト教徒の礼拝堂の天井にこのイスラム教の美術様式。
ノルマン王家の「美しければよし」とする姿勢がみえる。
このシンプルな壁に、かつてはどんな装飾がされていたのか
おもしろかったのは、12世紀当時は教会の入口が現在と全く逆だったのがわかる構造。前出の写真をよく見てもらえれば分かるが、丸いドームが乗っている下の部分は、アプス=教会後陣の外側構造に違いない。方位磁石で確認すると真東を向いていた。教会建築の基本を履行している。
***
いよいよ宮殿へ入場
まるで砦のようながっしりした簡素な造りはノルマン一族の好みだったようだ。
近くから見ると、かつてはこの壁もこんなにシンプルではなかったのではないかと思わせる。
屋根の上の建物は12世紀にはなく、雨水をとりこむための構造がある、屋上庭園のような場所だったようだ。
★「ジーザ」という名前は、アラビア語の「アジーズ」に由来する。
この宮殿の上部は現在銃眼のギザギザになっているが、かつてはまっすぐで、そこにアラビア語で「ルッジェーロ王がこのアジーズな(=素晴らしい)宮殿を建てた」と書かれていた。銃眼をつくるために半分削り取られた後、「アジーズ」と読める部分が残っていて、宮殿そのものの通称となったのである。
ガイドのマニュエラさんは、「まず、ここを見た方がいいわよ」と、順路の最後にくる正面中央の大広間へ案内してくれた。
★なんと、アルハンブラ宮殿の一室を思わせる雰囲気だ。
そこに、ノルマン宮殿とそっくりの黄金が輝いている。
スペイン貴族時代に描かれたフレスコ画もある。
この絵はとても変わっていて、よく見るとギリシャの神々と共に悪魔がたくさん顔を出している。
何故こんなデザインなのかは不明だが、この絵の悪魔は3月25日になると踊り出して何匹いるのか数えられなくなってしまうそうな。
パレルモの人はこの伝説にちなんで、動いていて数えられないものを「ジーザの悪魔のように数えられない」という表現をするのだとか。
何百年にもわたる装飾それぞれの一部一部が残されて共存している空間だ。
モンレアーレのモザイク修復にも携わっていたという方が、まさに作業中。
この後ろの壁に注目。壁から流れてきた水が緩い流れで広い庭の池にゆっくり流れ込み、暑さをやわらげるシステム。
これとほとんど同じものをインドのジャイプールで見かけたのを思い出した。
暑い夏を快適に過ごすために、この宮殿は様々な工夫をほどこしている。上階から見るとよくわかるがかつては海からの風を遮るものはない場所だった。その海風を建物の上階まで誘導する穴が壁に沿ってあけられている。
雨の水を溜めるタンクがあり※この写真はかつてのその場所にあったという噴水スペイン貴族の改築により、そのオープンエアの構造は蓋をされた。
ギリシャ神殿からとってこられたと思われる柱この柱の位置も現在の場所ではなかった。
柱の下部にあるおもしろい図像
その水を建物内部に流して涼をとる管が床下に埋められている床下は軽く仕上げるためか空洞のテラコッタが敷き詰められていた
12世紀ごろノルマン王朝時代がいかに多様な文化が共存した時代だったのか理解させてくれる展示がされている。
これは多分エレミティ教会(かつてはモスク、現在は廃墟)の墓所から発掘された墓碑。
上がヘブライ語、右がギリシャ語、左がラテン語、下がアラビア語。
宗教・言語・文字、これらすべてに寛容だったノルマン王朝の支配した12世紀シチリアは、中央ヨーロッパで言われるような「暗黒の中世」などではなかったのではないか。それは、現代の我々でも実践することの難しい、「多様さを認め合う社会」だったように見えてくる。
このジーザ宮殿はその象徴なのである。